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 クジラのモニュメントを後にし、しばらく進むと、廃墟が見えてきた。オオサワの説明によると、以前、南極に上陸した際の前線基地が残っているらしい。ただ、完全に朽ち果てているわけではなく、部分的に人の手により補修されているようだ。ひょっとしたらオオサワとアオタは、時折ここを訪れては、この大陸に足を踏み入れていたのかもしれない。

その廃墟の傍らにガレージらしきものが有り、アオタはその錆びついた扉をこじ開けると、薄暗い内部に入っていった。オオサワも後を続き、タカヒサもそれを追った。


 それはアオタが運転していたクラシックカーとは異なり、なにやらゴツゴツした大きな車輪を備えていた。そのフォルムは流線型とは程遠く、むしろ武骨で荒々しい印象を与えたが、車両が空力を考えたデザインになっていないのは、むしろ火星と似ていた。火星では、車両が走行するビークルレーン内は減圧され、ほぼ真空に近い状態が保たれている。もちろん空気抵抗を減らすためだが、真空中を走る車両が空力を無視するのは、当然と言えば当然である。

たとえ居住区を出たとしても、火星の大気圧は非常に低いので、空力の概念は育たない。火星における飛行とは、流体力学のあずかり知らない原理にて行われていた。

 「アオタさんの車とは、ずいぶん違うんですねぇ」

 それを聞いたオオサワが言った。

 「アオタはまだ、あのフェラーリに乗ってるのか?」

 そうそう、確かアオタも「フェラーリ」とか言っていたっけ。当然アオタは、必要最小限の答を返す。

 「あぁ」

 「もう部品が手に入らなくて大変だろ?」

 「部品は作れるが、タイヤが手に入らない」

 アオタがこんなに長いセンテンスを喋った事に驚いていると、それを気にする様子も無くオオサワが続けた。

 「確かに。ゴムは厄介だよな、この時代」

 二人だけで話が進んでいて、タカヒサには何の事だか全く判らなかった。

 「ゴムって何です? ってか、タイヤって何です?」

 オオサワは言った。

 「そっか。ゴムを知らないのか? そうだよなぁ。知るわけないよなぁ。火星じゃリニア駆動が当たり前だから、タイヤすら無いもんなぁ」

 「勿体つけないで教えて下さいよ!」

 オオサワは笑いながら話を続けた。

 「ゴムってのは、かつて地球上の赤道付近に栄えていた植物の樹液を加工した物さ。その樹液に硫黄を加えて加熱すると、分子同士が架橋結合を起こすんだが、カチカチになるわけじゃなく、軟らかい粘弾性体になる。火星で言うとシリコンエラストマーの様な物と言えば判るかな?」

 何やら化学的な話になって、この人は元々何をやっていた人なんだろう? という、初対面の時の疑問が再び甦って来た。海で魚を相手にしてきただけの人ではない事は明白であった。タカヒサのそんな疑念に気付く事も無くオオサワは続けた。

 「その架橋反応の際に、カーボンブラックやスチールコード、有機繊維のテキスタイル等を加えてタイヤという容器を作るんだが、その容器内に高圧空気を封じ込めると、ショックを吸収できる車輪が作れるわけさ」

 タカヒサだって、シリコンエラストマーなら知っている。でもそれで作った容器に高圧空気など入れたら、風船のように破裂してしまうのではないか? なんとなく腑に落ちないが、後でPUZに聞いた方が良さそうだと思い、その場は納得した振りをするタカヒサであった。


 そこからの旅は車による移動であった。重いザックを背負った徒歩移動に比べ、快適と言えば快適であったが、舗装されていない荒れ地を走る車は、決して乗り心地が良いものではなく、アオタの運転する車の方が100倍も快適であった。でも…とタカヒサは思った。ザクザクとした荒れた路面に車輪を取られない様、車体の向きを故意に変えたりしながら走る様子は、アオタの車とは、また違った面白さが感じられた。何となく、遊園地のアトラクションの様な感じだろうか。タカヒサは言った。

 「このフェラーリは乗り心地がわるいですね」

 操縦桿を握るオオサワは笑いながら応えた。

 「これはフェラーリじゃないよ。ランクルって言うんだ」

 「らんくる?」

 「あぁ、ランドクルーザーだ」

 「そ…そっすか…」

 よく判らなかったが、ここでも車という物に対する、タカヒサの知らない世界が有るという事を感じずにはいられなかった。車は、単なる移動手段ではないのだ。やっぱり折を見て、運転を教えてもらおうと心に決めたタカヒサであった。


 やがて荒野を越えたランクルとやらは、草原へと進入したが、その光景にタカヒサは目をみはった。先ほどまでとは違い、背の低い植物がどこまでも果てしなく続く絨毯を形成している。しかも中には、可憐な花を咲かせる植物も有るではないか。こんなに大量の植物が群生しているなんて、火星の人々が見たら腰を抜かすのではないだろうか。

 時折、車を停めてもらっては、それらの植物を観察するタカヒサであった。もちろん写真に収めると同時に、PUZにDNA配列の解析をやらせた。火星の植物展示ドームに有る貴重なサンプルとの共通点など、非常に興味深いデータが、いくつも収集されていた。中には鋭い棘を持った植物なども有って、思わずサンプルとして持ち帰りたい衝動に囚われたが、PUZの忠告に従い、生体の持ち帰りはやめておくことにした。確かに、火星のちっぽけな植物生態系にとって、外来種的な地球の植物が致命的な影響を与える可能性は否定できない。

 タカヒサは、オオサワが教えてくれた「サボテン」という言葉だけで満足する事にした。

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