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発着場のドアを開けた途端、強烈な風と雨がタカヒサを襲った。「雨具」という概念すら持たない火星人にとって、それは暴力的とも言えるほどの風雨である。タカヒサは無駄だと知りながらもシャツの襟を立て、係員に教えてもらった駐車場向へと駆け出した。するとそこには、一台の真っ赤なクラシックカーが車幅灯を点けて停まっており、そのフロントガラスでは、水をかき出すためのワイパーが忙しなく往復していた。火星では砂塵を取るために使われるワイパーだが、ここ地球では液体を拭い去るために使われているのだ。そんなつまらない事に感心しながら助手席に飛び込むと、タバコの煙の向こうから人の良さそうな男が顔を覗かせた。アオタである。タカヒサが手を差し伸べた。
「アオタさんですね? シズクイシです。エバニッシュさんから話が行ってると思いますが・・・」
儀礼的な握手を交わしてもアオタが何も喋らないので、タカヒサは話を続けた。
「南極へのガイドをお願いします。何しろ地球は初めてなものですから、色々と教えて下さい」
そこまで言うと、やっとアオタが口を開いた。
「・・・あぁ」
このアオタという男はかなり無口なヤツらしい。その当たりの柔らかそうな第一印象とはだいぶ違うようだ。やれやれ、これは先が思いやられると思いながらもタカヒサは、それを顔に出すことはしなかった。だってアオタが居なければ、南極に行くことなど出来るはずも無いのだから。
タカヒサは無駄話を続けた。
「随分とクラシックな車ですね?」
「・・・フェラーリ・・・」
そう言うとアオタは、床から生えているレバーの様な物を右手でいじったかと思うと、ブルンという音と共に真っ赤なクラシックカーを発車させた。
「へぇ・・・ふぇらーりっていうんですか? エンジンの音が随分うるさいですね。聞いたことも無い音だなぁ」
「・・・ガソ・・・から」
「えっ、何ですか?」
「・・・ガソリンエンジンだから・・・」
必要最小限どころか断片情報しか喋らないアオタに、なかばイライラしながらタカヒサは聞き返した。
「ガソリンって何ですか? 新しいウラニウム燃料の商標ですか?」
もちろん、地球で掘り出した原油をわざわざ火星にまで持ち帰り、更に精製して商品化するなどコストが高くて割に合わないという現実的な側面も有るのだが、火星においては殆どのエネルギーが原子力と太陽光によってまかなわれていた。化石燃料の使用が認められていたのは一部の行政機関や研究組織のみで、一般人による使用は厳しい規制の対象だったのだ。どうしてそこまで規制する必要があるのか、タカヒサには解せなかった。火星大気の主成分が二酸化炭素であり、「温暖化ガスによる環境破壊」というフレーズは火星には当てはまらない事くらいタカヒサでも知っている。どうやら化石燃料とやらには、人間を魅了する何か不思議な魔力が存在し、政府がそれをひた隠しにして独占しているに違いないと思わずには居られなかった。いずれにせよ、そんな環境で育った彼には「ガソリン」はもとより、あらゆる化石燃料に関する知識が欠落し、それらの燃料が、かつては地球上に栄えた動物や植物の死骸である事など想像だに出来なかった。当然、どうして火星には化石燃料そのものが存在しないのかなど、知る由も無かった。
タカヒサは関心しきりであった。
「昔の原子炉はこんな音がしたのかぁ」
「・・・・」
見たことも無い乗り物に内心ワクワクしていたのだが、それきりアオタが口をつむんでしまったので、仕方なく気まずい沈黙を共有する事になったタカヒサであった。ただ、この誘導溝を必要としない不思議な車は、走行するラインや速度までもが自分の意思で自由に操作できるらしい。火星では有り得ない丸い操縦桿や、微妙に横にズレながら行ったり来たりするレバー、更には足元の意味不明なペダル類をアオタが巧みに操るのを見て、タカヒサの目は釘付けになった。決して乗り心地は良くないが、その独特の加速感や横G変化はタカヒサのDNAに刻まれた何かをチクチクと刺激した。走行状態に呼応するかのように、その音程を上げ下げするエンジン音はお世辞にも静かとは言えず、むしろ騒音の類である。にも拘らず、その音には乗っている者に「心地よい」と思わせる響きがあった。旋回時のヨーレートだって火星の乗り物とは全く別次元だし、車体のピッチングやロールも荒削りで、コントロールすらされていないのではないだろうか? それに、先程からタカヒサの鼻腔を微妙に刺激しているのは機械油の匂いの様だ。それでも「心地よい」のは何故だろう? 単に「速さ」だけならば、おそらく火星の車の方が数倍も速い。だがこのスピード感は何なんだ? そこには、操作する人間と、それに反応する機械の微妙なバランスを愉しむという、タカヒサの知らない世界が有るらしい。それは人間と機械の「会話」と言えるかもしれない。アオタともっと気心が知れたら、この車の運転を教えてもらおうとタカヒサは心に誓った。
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