第五章 アオタ
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船外カメラが捉えたのは、タカヒサが資料映像で見た地球ではなかった。真っ青な海と緑の大地。その地表を部分的に覆い隠す雲が砂糖菓子のように散りばめられた、非常に美しい星。それが彼の知っている地球であった。しかし今、目の前にあるのは、ドス黒い渦巻き状の雲が漂う憂鬱な星だ。その渦巻きが台風と呼ばれる暴風雨である事もタカヒサは知っている。その雲のあちこちで走る閃光が、地上を吹き荒れる嵐の存在を教えていた。雲の合間から垣間見れる地表にも、緑と呼べるものはどこにも存在しない。資料映像しか知らなかったタカヒサは、人類が地球を棄てた理由がどうしても理解できなかったが、今こうして目の当たりにしてみると、初めてその理由を納得する事が出来た。
そうこうしている内にMSSボーズマンは徐々にその高度を落とし始め、分厚い雲の中へと進入を開始した。火星の約4倍の重力に逆らって船体を安定化させるために、船体後部に格納されている二基の原子炉エンジンがその最大出力を絞り出していた。しかし、そのエンジン音すらかき消されてしまうほどの激しい雨が船体を叩きつけ、その音はタカヒサの部屋に充満した。鳴り響く度にこの巨大な船を揺るがす雷鳴は、己の力の強大さを誇示しているかの様だ。火星では雨など降らない。火星の大気は希薄、すなわち飽和蒸気圧が小さいため、水が液体の状態では存在出来ないのだ。生まれて初めて見る自然現象を前に、タカヒサは息の詰まるような緊迫感を感じていた。地球の手荒い洗礼であった。
表面積は火星の4倍、質量は10倍に及ぶ地球だが、海が存在する為、その陸地面積と火星の表面積はほぼ同じである。ただしそれは、かつての地球の姿であり、海水面の上昇によって平地の殆どを失った現在の地球には、火星と比較できるほどの陸地面積は残されてはいなかった。その残り少ない陸地の一つ、NZ地区と呼ばれる島にMSSボーズマンは到着した。この巨大な船を格納できるほどの、更に巨大な発着ドームが開き、船はその内部へとゆっくりと導かれていった。吹き荒れる風が着陸を阻害しないか心配であったが、フリードリッヒが言うように、全てがオートメーション化された航行には、この風雨も折り込み済みなのであろう。発着場のアンカーが船体底部を捉えると、ゴゴーンという振動が伝わった。と同時に、最大出力で回っていた原子炉のタービンも、ヒューンという音と共にその出力を落とし、次いで静寂が訪れた。そして、一ヶ月に及ぶ航海は何事も無く終焉を迎えた
取り急ぎ乗組員達に挨拶を済ませると、タカヒサは船外へと飛び出した。雨を直に感じてみたくて急いで退船したのだが、時すでに遅く、ドームは完全に閉められようとしていた。それが閉じられると、外の嵐が嘘のように静まり返った。MSSボーズマンの原子炉も今は、最低限の電力供給が出来るだけのアイドリング状態にまで落とし込まれている様で、この一ヶ月間、絶えず聞こえていた低い唸り音は声を潜めている。聞こえるのは濡れた船体から滴り落ちる水滴の音だけであった。タカヒサは祖父から聞いた話を思い出していた。シズクイシという自分の苗字の由来が、落下する水滴から来ているという話を。
その時、背後から声をかける者が居た。ローズであった。
「気を付けていくのよ。海は荒れるから心配だわ」
「判っています。きっと大丈夫ですよ」
するとローズは、懐から何かを取り出した。
「このお守り持って行きなさい。旦那が惑星間航路を行き来していた頃、地球で見付けた物なの」
タカヒサはそれを手に取った。瑠璃色にキラキラ光る不思議な物体であった。その大きさの割には軽く、彼にはそれが何なのか皆目見当も付かなかった。
「これは?」
「カワセミの羽よ」
「カワセミの羽・・・鳥の体毛ですか!?」
タカヒサの変な言い回しを聞いて、神妙な面持ちのローズが吹き出した。
「鳥の体毛ですって? 確かにそう呼べない事もないわね」
タカヒサはばつが悪そうに頭を掻いた。
「すみません。鳥なんて見た事も無いものですから・・・」
「私だって、家畜以外の鳥は見た事も無いわ。でも私の旦那は、地球で一度だけ見た事があったの。空を飛ぶ野生の鳥を。その羽は、その時に拾った物だと言っていたわ。火星に戻ってから連邦図書館で調べたら、地球では『カワセミ』と呼ばれていた美しい鳥だという事が判ったのよ。本当に美しかったそうよ」
「そんな大切な物を頂く訳にはいきません」
「あら、いいのよ。私も一度でいいから、この目でカワセミを見たかったんだけど・・・もう無理よね。私の代わりにタカヒサ、貴方が見てきて頂戴。私はそれで満足よ。もし見ることが出来たら、どんな風だったか教えてね。アタシはこれからも、ずっとこの船に乗っているから」
タカヒサはその羽を大切に仕舞い込んだ。
「判りました。たとえ見ることが出来なかったとしても、必ず報告に行きます。約束します」
その言葉を聞いて、ローズは嬉しそうであった。そしてタカヒサの肩に手をかけるとクルリと後ろを向かせ、背中に背負ったザックをポンと押した。背中を押されたタカヒサが2・3歩前に進むと、後ろからローズが声をかけた。
「無理しちゃダメよ」
タカヒサが振り返って見ると、ローズの笑顔は、息子を送り出す時の母親のそれであった。
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