第六章 : わらべ唄
一
ここに戻って来るのに半年近くも費やしてしまった。結局、約三半振りに帰って来た尾根村は何もかもが懐かしく、麻太郎を優しく迎えてくれた。緑深い山々も清らかな川の流れも、また馴染み深い村の人々も、全てが居心地の良さを与えてくれる。村を出て久しく感じる事の無かった平穏な気持ちが麻太郎を満たしていた。
むしろ変わっていたのは麻太郎の方だった。人を殺めた記憶を振り払いつつ村に帰っては来たが、それが麻太郎を解き放してくれるはずもなく、償い切れない罪悪を引き摺っての帰郷だ。二人の遺体は蔵の中に封印して来たし、今のところあの事件は発覚してはいないようだが、人目を避けるように生きて行くことが、これほどまでにしんどい事だとは、今まで考えもしなかった。あそこが開かれるのは、いったいいつになるだろう? 自分が罪をあがなう時が来るとしたら、それはいつのことなのだろう? そうぼんやり考えるのであった。
あんなに嫌っていたはずの父、佐兵衛であっても、こうして再会すると込み上げる懐かしさに瞼が緩むのを感じた。母、千代は絶えて久しい息子の世話に明け暮れるような日々が始まった。ただ、麻太郎が帰ってきた理由に関しては、二人とも深くは聞こうとしない。それが麻太郎にとっては、救いとなっていた。
「いつまでお暇を貰っただ?」と問う千代に、麻太郎は言葉を濁した。
「うん。もう暫くしたら帰るさ。俺が居ないと、田島屋の仕事に支障が出るからな」
「そうかぁ。麻太郎も立派になったもんじゃ」そう言って破顔するのは佐兵衛であった。
「あぁ、もう直ぐじゃ。そんなに長くはならねぇさ」と麻太郎は答えた。
村に戻って数日の後、麻太郎は一人で谷村に向かった。特に目的が有ったわけではないが、ひょっとしたら華に逢えるのではないかと思ったからだ。きっと今頃は、谷村の誰かと所帯を持って、やや子の一人でも抱えているに違いない。村人たちに酷い目に遭わされた件もあるので、村外れから一目見られれば良いと思ったのだ。懐かしい吊り橋を渡り、麻太郎は踏み跡を登った。それらは全て、野菜を背負って通ったあの頃と同じであった。
土手を登り切って暫く小径を進むと、谷村の入口だ。麻太郎は村人に見つからない様、森に隠れながら近づいた。そして低木の影からこっそりと覗き込んだ麻太郎が見たものは、焼け焦げた柱が寂し気に立つ、変わり果てた村の姿であった。麻太郎は狼狽えた。
「何だ? 何が有っただ?」
おぼつか無い足取りで森を出ると、よたよたと亡霊の様に村に入ってゆく。
全ての家が焼け落ちて、そこに人の営みは残っていなかった。燃え残った黒い柱が、そこここに傾いて立ち、或いは横倒しになり、顧みられる事の無い落ち武者の墓標の様に風に晒されていた。何もかもが炭となっていた。灰の類が残っていないのは、村が焼け落ちてから、随分と時間が経っている証だろう。炭化した箪笥や食卓が静かに鎮座し、雨に晒されて朽ちて行くのを待っているかの様だ。村の中心部に有った井戸の滑車にも、切れた縄が寂しく絡みついているだけで、風が吹くたびに揺れてもの悲しい風景を強調している。村中を探ってみたが、焼けていない家は無く、また人の姿も見つけることは出来なかった。麻太郎は、この状況を飲み下せず、とぼとぼと村を後にした。
吊り橋に向かう踏み跡を下りながら、麻太郎は大事なことを思い出した。
「そうだ、華は何処に行った? 村に住めなくなったとすると、街に下ったのか?」
尾根村の誰かに聞けば、その消息も掴めるはずだ。吊り橋の手前で華の消息を知る必要が有るという考えに至った麻太郎は、目の前に続くあの獣道を懐かしく眺めた。この奥に、二人だけの秘密の場所が有ったのだ。尾根村に戻る前に、ちょっと昔を思い出して覗いてみよう。麻太郎は獣道を進んだ。
そこは以前と同じであった。雑草が伸びて足の踏み場に困る様な有様だったが、それ以外はあの時と何ら変わってはいない。頭の欠けた地蔵様も、相変わらずそこで両手を合わせていた。二人で並んで腰かけ、西瓜の種を飛ばし合った石も、あの時と同じようにそこに有った。この石の裏で、二人は愛を確かめ合ったのだ。風の音も、川の音も、森の音も、何も変わりが無い。あの頃の感情がまざまざと思い出されて、麻太郎の胸はきゅっと締め付けられた。
その時、その石の影にうごめく物を認めた。何だろう? ぼろ布の様だが・・・ 麻太郎が石を回り込んで覗き込むと、それがいきなり振り向いた。
「わぁぁぁぁ!」
麻太郎は驚いて尻餅をついてしまった。それは人間であった。痩せ細った身体にぼろぼろの布を纏った人間だ。それは、四つん這いのまま麻太郎に迫った。ぐしゃぐしゃの髪の隙間から垣間見られる目は、青白く濁っていて、目としての機能を持ち合わせているのかどうかも怪しかった。垢にまみれたどす黒い顔に穿かれた口はだらしなく開けられ、そこから覗く歯茎には、殆ど歯は残っていない。その僅かに残る歯も大部分が溶けた様に消失しており、黄色く変色した僅かな歯にすら、虫歯と思われる茶色の着色が見受けられた。その口から吐き出される息は、動物の死骸を思わせる異臭で、一嗅ぎしただけで胃の中の物が込み上げてきそうだ。帯は辛うじて腰に巻き付いているだけで、はだけた着物の間からは栄養の行き届かない骨と皮だけの薄汚れた脚が見え、枝に巣食った虫が作る瘤のような関節が際立っていた。胸元からはあばらの浮き出た胸が見え、そこに申し訳程度に張り付くひしゃげた乳房が、辛うじてそれが女であることを示していた。それは気の触れた女だった。先ほどから意味の通らぬ声を漏らしており、異界から届く呻き声の様な不気味な声が、いつまでも耳に残りそうだ。
その女は麻太郎の脚に絡み付き、その生臭い息を吹きかけながら「あああ・・・」と言った。女の身体から立ち上る酸っぱい体臭が麻太郎の鼻を突いた。女は笑っているようにも見えた。麻太郎は女の手を払いのけ、そして逃げる様にその場から走り去った。
慌てて吊り橋を渡り、尾根村に向かう小径を駆け登った。心の臓が口から飛び出しそうだ。それでも足を緩めることは出来なかった。しかし、走りながら何とも言えぬ違和感に包まれるのを感じた麻太郎は、徐々にその速さを緩めるのだった。
「何だろう? 何かが変だ・・・」
しまいには、ゆっくり歩くような歩調で小道を登りながら、麻太郎は考え続ける。
「何かがおかしい。何かを見落としている・・・」
そして遂に、その『何か』が何なのか、麻太郎は気付いてしまった。
「華?」
あの女の身体にまとわりついた着物の残骸に残る模様は、確かに見覚えのある華のものだ。麻太郎は再び走り出した。そして尾根村に戻り、家の玄関を乱暴に開けて吠えた。
「お父っ! お父っ!」
手
「どうした、麻太郎。血相を変えて」
「お父っ! 谷村に何が有っただ? 気の触れた華が居ただ! 俺の居ない間に、いったい何が有っただっ!?」
佐兵衛は麻太郎の顔から視線を落とし、沈んだ声で言った。
「お前ぇ、谷村に行っただか? あれを見たのか?」
佐兵衛は手仕事をやめて、観念したように麻太郎に向き直った。そして麻太郎が入院した頃の出来事から、ぽつりぽつりと語り始めた。
「お前は死にかかってたから、知るはずもねえが・・・」
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