牧場の長い冬が明けようとしていた。屋根の雪も緩んで、時折どさりと落ちては春の近さを告げ始めている。麻太郎と晴子が、仕事の合間に牧草の陰で身体を重ね合わせるようになって、もう三ヶ月が過ぎようとしていた。その頃になると晴子は、二人の関係の次の段階を意識するようになっていた。それはひとえに、最近の麻太郎が何だか遠くを見るような顔をする時が多くなってきたように感じているからだ。もうすぐ麻太郎が何処か手の届かない所へ行ってしまうような気がして、晴子は居ても立っても居られないのだ。麻太郎の逞しい胸で自分の左手を弄びながら、晴子は聞いた。

 「麻太郎は、これからどうするつもりなの?」

 「うん・・・」

 「ずっとここにいても良いのよ」

 「うん」

 「お父が帰ってきたら、ちゃんと麻太郎さんのこと紹介しようと思うの。だってお父が麻太郎さんの働きぶりを見たら、絶対気に入ると思うんだ。むしろお兄の方が不貞腐れて出て行っちゃうんじゃないかしら。あははは」

 あえて明るく言う晴子に、麻太郎は言い難そうだ。

 「晴子さん・・・ 俺・・・」

 「何?」

 「な、何でもない」

 はっきりとしない麻太郎に、晴子が感情を荒げた。麻太郎の横で体を起こすと、彼の胸をどんと突いた。

 「何よ、はっきり言いなさいよ! 私と一緒にいるのが嫌なの!?」

 「そ、そんなことないよ」

 「じゃぁ何なの? 本当は私以外に決まったひとが居るの? 居るんならはっきりとそう言って!」

 「そんなひと、居ないよ。ただ・・・」

 「ただ?」

 「この生活は長くは続かないんだ。俺には判るんだ」

 「何を言ってるの? どうして続かないなんて言えるの? 何か有るなら言ってよっ! 一人で何処かへ行っちゃったりしないでよっ! 馬鹿っ!」

 最後には晴子は泣きながら麻太郎の胸を叩くのだった。しかし、叩きながら晴子は覚悟を決めていた。どうやっても麻太郎は消えてしまうのだろうと。自分には計り知れない「何か」を背負っているのは感じている。出来ることならそれを半分、いや十分の一でも持ってあげられたらいいのにと常々思っていた。たとえそれが何であったとしてもだ。しかし麻太郎はその荷物を決して手放さない。その一部を垣間見せてくれることも無い。自分が麻太郎にしてあげられることは何も無いのだ。晴子は自分の無力さを痛感し、麻太郎の胸でむせび泣くのだった。

 「馬鹿・・・ 馬鹿・・・ 麻太郎の馬鹿・・・」


*****


 牧場の所々に緑が顔を出し始めていた。もう暫くすれば一面が緑に覆われて、可憐な花も咲き始めるのだろう。蝶が舞い、雲雀ひばりが高く歌い出すのも、もう直ぐそこだ。しかし春の訪れとともに、麻太郎の心はどんどん遠くへと離れてゆく。それなのに麻太郎は優し過ぎる。優し過ぎる彼には、そんな残酷な言葉を口にすることなど出来ないはずなのだ。だからこそ晴子は思う。自分が麻太郎を解き放ってやらねばならないのだと。麻太郎が何処へ飛んで行ってしまうのかは判らない、でも鳥籠の扉を開けてやるのは自分に課せられた義務なのだ。

 牛の足元に座り、搾乳しながら晴子は切り出した。真ん中の通路を挟んで反対側の牛を搾乳しながら、麻太郎は背中でそれを聞いた。

 「もういいんだよ、麻太郎。貴方は好きな所へ行けばいい。何処へだって好きな所へ行っちゃえばいいんだ。馬鹿」

 「・・・・・・」

 「今まで有難うね。麻太郎と一緒に居れて、凄く楽しかったし・・・ 幸せだった」

 「・・・」

 「少なくて悪いけど、今までのお給料を用意したよ。貴方の小屋の枕元に置いておいたから、それ持って行って」

 「でも・・・ 晴子さん・・・」

 「いいんだよ、貰って。私からの餞別だから。だってここから東に向かうんでしょ? まだ上の方は雪だから野宿なんてできないよ。ちゃんと宿に泊まって、んで・・・ んで・・・」

 「ありがとう、晴子さん。俺も出来ることなら、ずっとここに居たかった。ずっと晴子さんと一緒に居たかった」

 「・・・・・・」

 「なのに・・・ ごめん。こんな俺で・・・ ごめん」

 麻太郎が立ち上がる音が聞こえた。晴子はその音を聞いても立ち上がらなかった。いや、立ち上がることが出来なかった。牛の搾乳を続けながら、止めどない涙を流し続けた。

 「この御恩は一生忘れません」

 麻太郎は晴子に向かって深く頭を下げると、静かに歩き去っていった。麻太郎の去った牛舎に、晴子の嗚咽が木霊した。

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