雪に閉ざされつつある牧場でも、その牛舎内では多くの牛が日々生きている。そうなれば食べるものは食べるし、出るものは出る。乳も日々溜まるので、毎日の搾乳を怠れば乳房炎になってしまうのだ。それらの世話をするのが酪農家の仕事であり、麻太郎と晴子は作業を分担して効率よくこなしていった。勿論、主に力仕事が麻太郎の分担で、晴子にしてみればむしろ、いつもの冬よりも楽な冬を過ごさせてもらっている程だ。更に、元々頭の良い麻太郎は仕事を覚えるのも早く、晴子にしかできない仕事は徐々に減っていき、そしていつの間にか、麻太郎一人で放っておいても大丈夫な程に、牧場の仕事に熟練していったのだった。お蔭で床に臥せっている母の看病に充てる時間も作れ、晴子にとって麻太郎は日雇い人夫以上の存在となっていた。

 「麻太郎さん、お茶にしましょう」

 母屋から牛舎に向かい、体から湯気を上げている牛たち越しに声を掛ける晴子。しかし麻太郎からの返事は無かった。

 「居ないの、麻太郎さん? ・・・サイロの方かしら」

 晴子は牛舎の扉を閉め、雪を踏みしめながらサイロに向かう。その道も、麻太郎が朝の内に雪掻きしてくれたおかげで、苦労することなく歩くことが出来た。一昨日からこんこんと降り続く雪が深く降り積もり、既に腰の高さ辺りまで来ていたのだった。

 サイロの扉を開けて顔を覗かせた晴子は、再び大きな声を張り上げた。

 「麻太郎さん!」

 するとうず高く積み重なった牧草の上から返事が届く。

 「はーーーぃ、ここにいまーす」

 麻太郎が顔を出した。牧草は手前の取り易い処から消費してゆくので、次第に積み方が偏って不安定になってしまう。麻太郎は今、その牧草を均すように高い所に積まれているものを、低い方へと移し替えているのだった。

 「お茶が入りましたよ。休憩しましょう」

 「はい、今行きます」

 そう言って麻太郎は、積まれた牧草の上から降りてきた。ところが、移し替えたばかりの牧草は、長い間積まれていたものとは違いふかふかになっている。そのことを忘れて迂闊に飛び降りてしまった結果、麻太郎の身体はすっぽりと飲み込まれてしまったのだった。

 「うわぁっ・・・」

 それを見た晴子が駆け寄った。

 「大丈夫、麻太郎さん? 馬鹿ねぇ。何処? 何処にいるの、麻太郎さん?」

 しかし、晴子が掘り起こしても掘り起こしても麻太郎の姿は見えなかった。何だか心配になってきた晴子は、半ば泣きべそをかきながら掘り返す。

 「何処なの、麻太郎さんっ! 返事をしてっ! 麻太郎さん!」

 すると突然、晴子の脇の牧草が盛り上がったかと思うと、その中から麻太郎が飛び出してきた。

 「ばぁっ!」


 二人の間に沈黙が横たわった。晴子は涙を浮かべたまま、その目を丸くして固まった。麻太郎も「ばぁっ」の恰好のまま固まった。気まずい沈黙だった。すると俄かに晴子の口がへの字に歪み、彼女は何も言わずにぷいと背中を向けて出て行ってしまった。すたすたと歩き去る晴子の背中を、子供に「お化けだぞぅ」と怖がらせる大人のような恰好のまま麻太郎は見送ったのだった。


*****


 その日の昼食は、更に気まずいものとなった。一言も喋らず給仕する晴子と、一言も喋らず箸を進める麻太郎。重苦しい雰囲気のまま時間が過ぎていく。そして遂に堪りかねた麻太郎が声を掛けようとした瞬間、晴子は両手を合わせて「ごちそうさまでした」と呟き、自分の食器だけを重ねて席を立ったのだった。不味いことをしたな。麻太郎は甚く反省し、謝るべき好機を待っているのだが、晴子は中々それを与えてくれそうにも無い。こんな時、いったいどうすればいいのだろう? 麻太郎には全くもって、良い考えが浮かばないのであった。

 その時だ。台所の方から「きゃっ」と小さな悲鳴が上がり、続いて食器の割れる音が響いた。麻太郎は急いで立ち上がり、そして台所へと駆け付ける。そこで麻太郎が見たものは、足元に割れた茶碗と右手で自分の左手を押さえる晴子の姿だった。

 「晴子さんっ! 指を切ったんですかっ!?」

 駆け寄る麻太郎に対し、背中を向けるように顔を背ける晴子。まだご機嫌斜めのようだ。

 「駄目です、晴子さん! ちゃんと見せて下さい! ばい菌が入ったら・・・」

 無理やり引き剥がした晴子の左手を抱えるようにした麻太郎は、ぎゅぅと握られた掌を強引に開いた。そして傷口を探す。傷口を・・・ 傷口を・・・ 傷口は何処だ?

 ぽかんとした顔で振り返ると、晴子がしきりに笑いを堪えていた。

 「晴子・・・ さん・・・?」

 堪らず晴子が噴き出した。

 「あははは、麻太郎さんったら・・・ くっくっくっく・・・」

 「・・・・・・」

 「あんな悪戯するから、お返ししたのよ。くっくっく・・・ 麻太郎さんの真剣な顔・・・」

 「晴子さんっ!」

 麻太郎は怒りに任せて晴子の身体を押し、壁に押し付けた。掴んだ彼女の左手は、しっかりと握り込んだままだ。しかし晴子にじっと見つめ返されると、麻太郎の怒りにも似た感情は、直ぐに何処かへと消えて行ってしまった。

 「晴子さん・・・」

 「麻太郎さん・・・」

 二人はそのままの姿勢で、長い長い口づけを交わした。

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