第五章 : 高原の冬

 なだらかな傾斜の先には、鬱蒼と茂る森が濃い緑の帯となって連なっていた。その手前に広がる広大な牧場では、一掴みの碁石をぶちまけたかのように、白と黒の牛たちがのんびりと草を食んでいる。いやよく見れば、その牛たちは夫々が白と黒のまだら模様のようで、麻太郎の村にいた褐色の牛とは全く異なる種類と思われた。それに尾根村には、全部合わせても三頭しか居なかった筈だ。それらが狭い牛舎に繋がれていたのに対し、ここの牛たちは目も眩むような緑の草原に疎らに散開しつつも、全て数え合わせれば数十に届こうかという数だ。人目を避け、街を避け、それでも人の営みの感じられる方へと流れ流され辿り着いた高原の村で、麻太郎は見たことも無い風景を前に佇んでいた。

 牧場の囲いにもたれ掛かりながら、飽きもせず遠くの牛たちを眺めていると、子牛を二頭引き連れた人影が遠くの方からこちらに向かってくるのが見えた。その人影は囲いに沿って徐々に近付いてくるようだが、別に用事があるわけではないだろう。そのうち左に折れて、何処かへ行ってしまうに違いないと踏んだ麻太郎は深く考えることもせず、なおも物珍しい風景に心を弄ばせていたのだった。

 しかし何者かが草を踏む音に我に返った麻太郎が右を見ると、先ほどの人影が直ぐそこにまで来ているではないか。驚いた麻太郎はその場を離れようとしたが、今そのような行動に出たらかえって怪しまれるかもしれない。そんな思いが心の中を駆け巡り、遂には立ち去る好機を逸したまま麻太郎は固まった。

 「こんにちは」

 屈託のない笑顔で話しかけるのは、この牧場の一人娘、晴子だった。年の頃なら二十四五といったところ。子牛を連れて散歩でもしているのか、薄汚れた作業ズボンに格子柄の赤い綿シャツ。三つ編みにしたおさげは、ぼさぼさの髪を無理やり纏めた様な印象だ。普段から牧場仕事を手伝っているに違いない日に焼けた顔にちらほらと浮き出ていている雀斑そばかすが、牧場に散らばった牛たちを麻太郎に連想させるのであった。

 「こ、こんにちは・・・」

 「旅の方ですか? んん・・・ そうな風には見えないな。でもこの村の人じゃないですよね?」

 「は、はい・・・ たまたま通り掛って・・・」

 「そう? さっきから見てたけど、高鷲の方から歩いて来ましたよね? でもこの先はどんどん山に入っていって何も無いんですけど・・・ 飛騨高山まで抜けるなら、男の足で急いでも三日がかりですよ。そんな旅支度もしてないみたいだし」

 何故この女は、そんな余計な事にまで首を突っ込むのだろう。人の事などどうだっていいじゃないか。放っておいてくれないだろうか。麻太郎は言葉に詰まり俯いた。

 「もう直ぐ上の方では雪が来るんじゃないかなぁ」

 「・・・」

 「ひょっとして行く当てもないとか?」

 「・・・・・・」

 晴子が連れていた子牛の内の一頭が、囲いに掛けたままの麻太郎の手を舐め始めた。麻太郎が黙ってその手を子牛の好きなようにさせているのを見た晴子は、気分を変えるかのようになおさら明るい声を出した。

 「私、晴子。貴方は?」

 「あ、麻太郎・・・」

 「そう、麻太郎さん? 良い名前ね。もし今夜、泊る所が無いんだったらうちに来なさいよ。部屋なら一杯有るから。ねっ?」

 顔を覗き込まれて益々俯く麻太郎に、晴子は「ほら、いらっしゃい」と言って踵を返した。子牛を引き連れて、今来た方向に歩き去る晴子の後姿を、麻太郎は呆然と見つめる。すると晴子が振り返り「早くいらっしゃいよ、麻太郎さん」と笑った。麻太郎は促されるままに、ゆっくりと晴子の後を追うのだった。

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