「上手くやってくれたようやな、麻太郎」

 麻太郎の背中を壁に押し付けて、初音は身体を預けていた。両手で麻太郎の顔を包み込むと、背伸びをしながら唇を求めた。麻太郎は初音の望みをか叶えてやりながらも、その言葉には反応しなかった。その件は、出来ることなら忘れてしまいたかったからだ。なんと馬鹿なことをしでかしてしまったのだろう。決して償えるような罪ではない。自分が卑劣な犯罪者であることを痛感し、雪乃の顔を思い出しては罪の意識に苛まれる麻太郎なのであった。

 「雪乃のやつ、いい気味やで。ずるいことするからや」

 そう言って麻太郎の首に腕を回した時、突然、蔵の扉が開いた。外の光が痛いくらいに差し込み、二人は目を細めた。その光の中に浮かび上がる人影を見て、麻太郎は戦慄を覚えた。黒い影としてしか見えないその巨大な体躯の持ち主は、その顔が見えずとも誰のものか明白だったからだ。

 長次郎は後ろ手に扉を閉めると、ずんずんと二人に近付いた。初音はさっと身を離すと、積んであった箱の横に移動した。それでも長次郎の歩調は変わらず、またその進行方向にも変化は無かった。真っ直ぐに麻太郎の方に歩み寄ったかと思うと、いきなりその拳を麻太郎の左顔面に打ち込んだ。麻太郎の身体は吹き飛び、口からは血が噴き出した。更にその襟首を掴み上げると、今度は反対方向に放り投げた。初音は足元に転がってきた麻太郎を除けて、箱の上に飛び乗るように座った。長次郎が自分に対しては、決して乱暴を働いたりしないことが判っているのだ。たとえ初音に何らかの責任が有ったとしても。

 「なめとるんやないでぇっ!」

 長次郎は絶叫しながら麻太郎の腹を蹴り上げた。「うげっ」という声を残して、麻太郎は自分の腹を押さえて丸くなった。その姿は、子供にいびられる昆虫の様なみじめな姿である。次に胸ぐらを掴むと、その強靭な力をもって、また反対方向に向かって放り投げる。積み上げてあった柳行李に麻太郎の身体がぶつかって、その中に仕舞ってあった物が散乱した。初音はその手にぶら下げていた巾着の中から煙草を取り出すと蝋燭の焔で火を点け、ふぅと旨そうに煙を吐く。今、目の前で繰り広げられている暴行にはまるで興味が無さそうに、つまらなそうな顔であらぬ方向を見上げ。

 「あんまり乱暴しぃなや」初音が煙草を吹かしながら、そのままの姿勢で言った。

 「お前が浮気するからやろっ!」長次郎が叫んだ。

 「浮気って何やの? うち、あんたの女房ちゃうって言うてるやん」

 「うるさい! 黙れ、黙れ!」

 「ったく、あほくさ・・・」初音はもう一度、煙草を吹かした。

 行李の中から散乱した、古ぼけた盆やら椀やらの中に麻太郎の身体は埋もれていた。口の中では血の味がした。血だか涙だか判らない物が麻太郎の目に流れ込んで来る。訳も判らず目の前を手探りすると、散らかったお膳の下に有った、茶色く冷たい何かが手に触れた。

 「おらおら、立たんかいっ! この、ぼけがぁっ!」

 長次郎が再び麻太郎の服を掴んで引き起こし、前を向かせた瞬間、その茶色い物が空を切った。「ざくっ」という気色の悪い音と共に、長次郎の頭頂部に近い左側頭から右耳の上辺りまでが無くなった。長次郎は、怒りの表情を顔に張り付けたまま、前のめりに倒れ込んだ。

 それは大ぶりな、古い鉈であった。赤茶く錆び切ってはいるが、渾身の力を込めて振り下ろせば、肉を切り割き骨を砕くには十分な破壊力を秘めていた。切り離された長次郎の頭部が、初音の足元に転がった。

 「ひぃっ!」初音の顔が引きつった。

 初音は目を見開いて麻太郎を見る。

 「まさか、私まで手ぇ掛けるつもりやないやろな、麻太郎?」

 初音の顔は蒼白だった。指に挟んだ煙草が落ちても気付かない様子だ。

 「この男がしつこう言い寄ってきて、困っとったんや」

 そう言って、既に息絶えた長次郎に向かって顎をしゃくると、初音はゆっくりと箱から降りて麻太郎を刺激しない様に近付いた。あわよくば逃げ出そうと考えていたのかもしれなかったが、非力な初音では蔵の扉を素早く開けることなど出来ない。こうなれば初音が生き残る手段は一つ。麻太郎に寄り添う事だけなのである。

 「私が惚れとんのは、あんただけやで。判ってるやろ?」

 初音は麻太郎の前に崩れ落ちると、その脚にしがみ付き、着物の裾を広げて股間に顔を埋めた。そして、露になった褌から麻太郎のものを引っ張り出すと、それを口に含む。初音の両手は麻太郎の後ろに回され、その尻を強く掴んでいた。初音の頭が規則正しく前後運動を始めると、くちゃくちゃと唾液の鳴る音が聞こえた。時折、つばを飲み込む音も聞こえた。

 それを黙って見降ろす麻太郎には、初音の白いうなじに絡み付くほつれ毛が、何だかこの世の物ではないような気がするのだった。それを何処かで見たような気もするが、それが何処だったか思い出せない。でも、そんなことはどうでもいいと思った。これまでの自分の行いを断ち切るのは今だと、心の何処かで誰かが叫んでいる様な気がした。

 麻太郎は左手で初音の髪を鷲掴みにすると、それを己の股間から引き剥がした。初音はまた「ひっ」という声を上げた。そしてその頭をゆっくりと外側に倒すと、初音の白い左首筋が大きく開いた。初音は再び目を見開く。麻太郎は、そこに向けて鉈を振り下ろした。

 分断された頸動脈からは、滝の様に鮮血がほとばしり出て、初音の身体は反射的に立ち上がった。おそらく、左首の筋肉も断裂しているのであろう。右に傾いた首を真っ直ぐに戻すことも出来ないまま、顔には驚愕を張り付けていた。自分の身体に何が起きているのか、理解しかねている様子だ。初音の着物は左肩から徐々に赤く染まり、その左手の指先からはぽたりぽたりと血が滴った。床に形づくられた赤い水玉模様は次第に結合し、いつしか大きな血溜まりとなった。そして「うぅ・・・」という唸り声を上げたかと思うと、どさりとその場に崩れ落ちた。

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