第四章 : 錆びた鉈
一
麻太郎は初音との逢瀬を重ねていた。それはいつも初音からの呼び出しによるものであったが、それは主人と使用人という上下関係からなる自然な成り行きであった。しかしその呼び出しは巧妙に隠されており、周りの人間からはそれと知れない様に工夫されたものだ。それは、田島屋の店内に飾られている茶器の置物で、その加賀から取り寄せた豪勢な九谷焼の注ぎ口が、右を向いている時は初音が呼んでいることを現していた。茶器が右を向いていることを認めると、麻太郎はそれを左向きに置き換えた上であの蔵へと赴き、初音と肌を重ねるのであった。
そんな日々が続いた。麻太郎は既に十七歳になっていた。いつものように習い所の前で初音を待っていると、突然、脇腹に衝撃が走った。思わずその場に崩れ落ち、見上げた視線が捉えたものは長次郎の顔であった。背後から近づいた長次郎が、いきなり麻太郎の脇腹に拳をのめり込ませたのだ。
「奉公人のくせに、初音に手ぇ出しとるんか、お前はっ!?」
そう言って長次郎は、更に麻太郎の腹を蹴り上げた。麻太郎は「ぐふっ」という声を漏らした。すると近くを歩いていた通行人が声を上げた。
「喧嘩や、喧嘩や!」
その声に反応した幾人かが野次馬と化し、足を止めて二人の方に視線を向けた。長次郎は「ちっ!」と舌を鳴らし、小走りでその場から逃げ去った。
丁度その時、習い所から出て来た雪乃が、道端に倒れ込む麻太郎を認めて駆け寄った。
「麻太郎さん! どないしはったん!?」
雪乃はしゃがみ込み、麻太郎を抱きかかえるようにその右腕を肩に回した。そして麻太郎の左手を自分の左手に取った。その時、麻太郎の火傷に雪乃の指先が触れた。麻太郎は左手をさっと引き戻し、着物の袖に隠してしまった。雪乃は宙に浮く形となった左手を、麻太郎の左肩に添えて言った。
「長太郎兄さんにやられたん?」
麻太郎は下を向いたまま何も答えなかった。
「最近、うちのこと避けてるのは何でなん? 兄さんに何か言われてるん?」
麻太郎は顔を背けた。初音に言われたなどとは、口が裂けても言うことが出来なかった。いとさんに逆らうなど、考えられない事なのだ。
「うちのこと、嫌いになったん? 本当は好きでも何でもなかったん?」
雪乃は顔を崩して泣きそうだった。麻太郎だって、自分の情けなさに涙が出そうだった。何一つ思い通りにならない。何もかもが、自分以外の誰かによって決められ、自分はそれに抗う事すら出来ない。戦う事も出来ない。こんなだから華を守ってやることも出来なかったのだ。そんな弱くて腰抜けの自分が死ぬほど嫌だった。
「雪乃さん・・・ お、俺・・・」
「何やってる、麻太郎!」
麻太郎が言い終わる前に、鋭い声が響いた。初音であった。麻太郎の肩を抱きながら雪乃が振り返った。
「初音ちゃん、麻太郎さんが大変なの! 誰かに殴られて!」
麻太郎は上目遣いで初音を見上げた。初音はじっと二人を見下ろした。その姿は、先ほどの長次郎と似ている様な気がした。
「大丈夫や。麻太郎の身体は、そんなやわやない」
そう言うと麻太郎の腕を掴み、強引に引っ張り上げた。そして「行くで」と言って、さっさと歩き出した。麻太郎は脇腹を押さえながらそれに続く。麻太郎は左手に残る雪乃の暖かな手の感触をいつまでも反芻していた。その夜、初音はいつもより激しく麻太郎を求めた。
二人は、蔵の中で横たわりながら、その余韻に浸っていた。麻太郎の腕枕に頭を乗せた初音は、やけどの跡が残る麻太郎の左手を弄んでいた。
「前から聞こうと思ってたんやけど、この火傷どうしたん?」
「自分でも、よく覚えてないんです・・・」
「ふぅん、そうなん?」
たいして興味も無さそうに弄んでいた左手を離すと、初音は麻太郎の頭に手を回し自分の顔を寄せた。そしてしばらくの間、接吻した後、そのままの姿勢で言った。
「なぁ、麻太郎。お願いが有んねんけど」
「はい、何でしょう?」
「雪乃のことや」
*****
三味を弾けぬよう、左手を壊すのが目的であった。しかし、左手だけを痛めつけては、三味との結びつきが推察されてしまう。そうなれば、あるいは初音の関りが露呈するかもしれず、あくまでも別の目的が有ったと推されるよう事に当たり、結果として雪乃の左手が葬られる必要が有った。
麻太郎には判りようもないことであったが、初音によると雪乃は三味の師匠にずるく取り入って、習い所の主席の座を不正に手に入れたというのである。修練期間の長さや技量の面でも、本来なら初音が選ばれて然るべきであるところ、何らかの策を弄しているのだと。普段の雪乃を知っている麻太郎には、その話をにわかには信じられぬ思いであったし、たとえそうであっても、そこまでする必要が有るのだろうかと思わずにはいられない。だが初音の言葉は絶対なのだ。初音の命に背く事など許されない。
そこで麻太郎は習いの帰りに雪乃を待ち伏せた。と言っても自分の犯行であることが知れては不味い。麻太郎は田島屋の倉庫から、病院に卸される麻酔薬なる薬剤を小分けにして持ち出し、それを雪乃に使うことを思い立ったのだ。学の無い麻太郎であっても、それを吸った人間が意識を失うことは知っている。習いの帰り道、雪乃が一人になった時を見計らい、背後からそっと近づいた麻太郎は、綿布に染み込ませた麻酔薬を雪乃に嗅がせたのだった。
「あっ、えっ・・・ 嫌っ・・・」
気を失った雪乃がぐたりとなって倒れそうになるのを、麻太郎の力強い腕が支え、そして担ぎ上げる。そのまま街外れの神社の境内に忍び込み、人の来る心配の要らぬ神舎に連れ込んだ。次に麻太郎は、ことさら強く雪乃の手首を締め上げた。そしてその縄の反対側を天井に梁に通し、体重を乗せて強く引くと、雪乃の身体は両手を縛られたまま引っ張り上げられ、つま先が辛うじて床に触れるのみとなった。そうして雪乃の身体は蝋燭の焔に浮かび上がる影絵の様に、ゆらゆらと不確かとなったのだった。
麻太郎は、雪乃の意識が戻るのを待って鋏で着物を切り裂いた。意識が戻るのを待ったのは、初音から言い渡された「思い切り怖がらせてな」という命令を律儀に守ったのだ。その頭には、目隠しの為の分厚い麻袋が被されている。刃物の音に雪乃は慄き、声を上げて懇願した。
「後生です。堪忍して下さい。お願いです。許して下さい」
麻太郎は声を出さぬよう細心の注意を払いながら、着物をばらばらにして全て切り落とし、自らは決して望んではいない淫行を全裸の雪乃に施した。後から抱きしだいた臀部を容赦無く突き上げる度に、雪乃の口からは嗚咽の声が漏れた。
するとその時、雪乃が思わぬ言葉を放った。
「麻太郎さん? あなた、ひょっとして麻太郎さんやないの?」
危うく声が出そうになる麻太郎。どうして判った? 手はずに落ち度は無かったはずだ。それとも口から出まかせか? 麻太郎の心臓は早鐘の様に打ち鳴らされた。そしてその雪乃の言葉が、麻太郎を現実に引き摺り戻した。
少なからず心を寄せていた雪乃に、この様な惨い仕打ちをしなければならぬとは。こんな形で雪乃と結ばれねばならなかった残酷さに、麻太郎の心は引き裂かれそうだった。それを思うと目に涙が溢れ、危うく声を漏らして泣き出しそうになってしまうのだった。麻太郎は心の動揺を打ち消す様に、さらに激しく雪乃の身体を突いた。何度も事に及び凌辱に凌辱を重ねた。
放心した雪乃を吊るしたまま放置し、麻太郎がその場から逃げ去ったのは、夜明けも近い頃合いであった。
翌日、あられもない姿で発見された雪乃の両手は、血の通いが滞って壊死を起こしていた。しかしながら犯行現場の状況を鑑み ― 麻太郎の目論見通り ― 姦通目的の兇行と警察は判断したのだった。辛うじて両手の切断を免れた雪乃であったが、その手の働きは著しく損なわれ、二度と三味を手にすることは無かった。
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