四
汽車を乗り継いで麻太郎は駅に降り立った。隣には番頭の勘八が居る。油の買い付けに来た勘八の鞄持ちとして、麻太郎の同行が許されたのだ。初音のお供をしなくても良い火曜、木曜以外は、こうやって薬問屋の仕事の修得にいそしむのが麻太郎の仕事になりつつあった。今日の買い付けは菜種油だ。この油は医薬品の原材料にもなるし、紡績工場での潤滑油としても需要が有るということで、田島屋にとって主要な商品の一つとなっている。こういった経験を経て、麻太郎は着々と田島屋の一員となっていった。
そしてもう一つ、今回の買い付けには大きな意味が有った。ここは麻太郎の故郷、尾根村にほど近い高原の街なのだ。田島屋に奉公に出る前、麻太郎が入院していた病院もこの地に有る。ただしそれは、勘八のあずかり知らぬことであり、麻太郎は心密かに望郷の念に捕らわれていたのであった。
その街は都会とは程遠く、かといって田舎とも言えない地方都市の一つに過ぎなかったが、麻太郎の生まれ育った山村から見れば、それはとてつもなく大きな街と言えた。明治の風情を残す狭く入り組んだ街並みにも近代化が入り込み、新旧の者たち、あるいは物たちがしのぎを削る覇権争いが進行中であった。夏の日差しを避けるように伸ばされた店先の庇の下で、購入したラムネを飲みながら二人は汗を拭った。勘八が店の主人に「今年の夏は暑いでんな」などと話しかけると、「夏は暑いもんじゃ」と気の無い返事が返って来た。勘八は麻太郎の方を見ながら首をすくめた。空になった瓶を店に残し、駅より伸びる商店街を勘八と共に歩きながら、麻太郎にはそれが、時空を超える隧道の様に思えるのだった。
午前中にいくつかの菜種農家を訪れて契約を結んだ後、二人は駅近くの蕎麦屋で遅めの昼を採った。勘八はざる蕎麦のつゆに薬味を溶きながら聞いた。
「お前はこの辺に土地勘があるみたいやな?」
麻太郎はつゆに浮かんだ天ぷらをほぐしながら答えた。最初、かけ蕎麦を頼もうとしたが、勘八が「奢ってやるから、好きな物注文したらえぇ」と言うので、思い切ってかき揚げが乗った天ぷら蕎麦を注文したのだ。
「はい、大まかなところは判ります」
「昔、住んでたってことかいな?」と、ずるずるっと一口、蕎麦を啜り上げてから聞いた。麻太郎も蕎麦を啜り上げた。
「いえ、この近くの山村の生まれなんです」
「ほぉ、さよか。のんびりしてて、えぇとこやな、ここは」勘八は箸を止めて、店の窓の外を見ながら呟いた。
「はい・・・」勘八の呟きが呼び水となり、麻太郎の心の中に昔のことが沸々と浮かび上がった。尾根村、谷村の風景。そして両村を分かつ川と、そこに架かる吊り橋。吊り橋の左岸から延びる獣道の先に有る秘密の場所。頭の欠けた地蔵様と、腰かけるのにちょうど良い石。そう、それは二人だけの秘密の場所。
突如、その顔が浮かび上がった。
「華・・・」
思わず口を突いた言葉に、勘八が反応した。
「何やて? 花?」
「い、いや。菜の花が一面に咲いたら綺麗かな、と思って・・・」
「せやな。黄色の絨毯で敷き詰められた菜の花畑は絶景やでぇ」
勘八が菜の花の最盛期にここを訪れた時の話を聞き流しながら、麻太郎の心は再び「華」によって満たされていった。
華のことは諦めたはずだった。華のことは考えまいと努めて来たはずだった。麻太郎にとってそれは、身を斬るより辛いことだったはずだ。ところが村を離れて月日が経つにつれ、自然に華が麻太郎の心の中から消えていた。気が付くと、特に努めてそうしようと努力をしなくとも、華のことなど思い出さなくなっている自分に、たった今気付いたのであった。自分は、何と薄情な人間なのだろう? 一度は将来を約束し合った仲なのに。あんなに激しく愛し合っていたはずなのに。あの頃の自分の華を想う心情は、その程度のものだったのだろうか? それどころか今の自分は、華ではなく雪乃に心惹かれているではないか。それは罪悪感という言葉で片付けるには、あまりにも重い感情だった。麻太郎は、自分という存在自体が「罪悪」である様な気持ちに捕らわれ、心を苛むのだった。何処にもぶつけようの無い怒りが麻太郎の脚にしがみ付き、底の無い泥沼へと引き摺り込むかの様だ。もがけばもがく程、両足にまとわりつく怒りは重さを増し、ずぶずぶと麻太郎の身体を沈めた。半狂乱となって暴れる麻太郎は、遂に首まで憤怒の沼に嵌まり込む。そして、容赦無く口に流れ込む腐臭に満ちた汚泥に喉が詰まり、息を継ぐことも叶わなくなった瞬間、我に返った。
「どうしたん、麻太郎?」
蕎麦屋の卓の向こう側から、勘八が麻太郎の腕を掴んで揺すっていた。麻太郎の両目はぼんやりと勘八を見たが、そこに何が映っているのかを認識するまで、ほんの少しだが時間が必要だった。麻太郎は蚊の鳴くような声で「勘八さん?」と言った。勘八はもう一度腕に力を込めて麻太郎を揺すった。
「大丈夫か、麻太郎! 具合でも悪いんかっ!?」
そこまでされて、やっと正気に戻った麻太郎は答えた。
「い、いや。何でもありません。ちょっと、昔のことを思い出してただけです」
ちょっとだけ安心した様子の勘八も、まだ完全に安心し切っているわけではなさそうだった。
「ほんまに大丈夫か? 具合悪いなら、午後の契約はまた今度でもえぇねんで」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
それを聞いた勘八は、乗り出していた身を引いて椅子の背にもたれ掛かった。
「そんならえぇねんけどな・・・」
*****
雪乃に対する想いは初音に釘を刺され、買い付けの旅行先で華に対する想いがぶり返し、麻太郎は悶々としたまま初音のお供をしていた。以前であれば、この習い所の玄関先で待つ時間は麻太郎を至福の時へと誘ってくれたものだが、今は何とも重苦しく、遅々として進まない時間が苛立ちを増幅させていた。むしろ今は、雪乃の顔を見るのが辛かった。以前の様に屈託なく会話できないのであれば、むしろ会いたくなどない。同じように誰かを待っている男が、先ほどから麻太郎を睨みつけていたが、そちらに気を配る余裕など今は無かった。
程なくして、習いを終えた雪乃が姿を現した。麻太郎の顔はぱっと明るくなったが、すぐさま初音の言葉を思い出し、不機嫌に俯いた。いつもと様子が違う麻太郎に、雪乃が少し戸惑った様子を見せたが、その隣にいる男を見付け、声を上げた。
「あら、長次郎兄さん」
麻太郎は驚いて、その男の方を見た。
身の丈は麻太郎よりも三尺も大きいだろうか。肩幅も広く、恰幅のいい大男と言ってよかった。枯草色の着物に茶色い帯を巻き、大きくせり出た腹が他人を威圧するようにそびえていた。四角く刈り上げた頭は町人風で、麻太郎の様な田舎者を見下す態度を隠すつもりなど毛頭無い様子だ。色黒の顔に穿かれた両目は抜け目なく、どんなに些細なことであろうと、自分の意にそぐわぬ限り容赦はしないという意思を伝えていたし、への字に閉じられた口は、今にでも恫喝の言葉が溢れ出しそうに思わせた。
そこへ、いつも通り少し遅れて初音が出て来た。そして長次郎を認めると、あからさまに嫌な顔をした。しかし長次郎は、そんな様子に気付くことも無く馴れ馴れしく腰に手を回したかと思うと、ぐぃと初音の身体を抱き寄せた。そして初音の首筋辺りに顔を近付けて、その肌を吸おうとした。初音は身をよじらせて、それを拒絶した。
「何や、今さら恥ずかしがんなや。許婚どうしやんか」長次郎が言った。
麻太郎は目を見張った。この大男が雪乃の兄というだけでも驚きなのに、さらに初音の許婚だって?
「そんなん、親同士が勝手に決めたことや。うちには関係有らへん」
意外な言葉で初音が突っ撥ねると、長次郎は不機嫌な表情を顔に張り付けた。何だか雲行きが怪しい。
「うちがあんたと付き合うてるのは、許婚とか、そんなんちゃうで。ただの遊びやからな。誤解せんといてや」
長次郎の顔が、みるみる紅潮した。握り締めた拳は、ぶるぶると震えていた。雪乃が心配そうに声を掛けた。
「兄さん・・・」
「うるさい! お前は黙っとけっ!」
長次郎が声を荒げても、初音は一向にお構い無しだった。全く相手にしていないというか、眼中に無いといった様子だ。そして手に持った三味と譜面を麻太郎に手渡すと、つんとした態度で言った。
「行くで、麻太郎。もたもたしぃなや」
麻太郎はどうしてよいか判らず、取り敢えず長次郎に頭を下げると、走って初音を追った。その二人の後姿を、長次郎がいつまでも睨み続けていた。
「よかったんですか、いとさん。さっきの・・・」
「あぁ、あれな。うち、あんな奴のこと、何とも思てへんねん。そやのにあいつ、しつこいねん。許婚か何か知らんけど、勘違いも甚だしいわ」
「でも、許婚ってことは・・・」
「えぇねん、えぇねん。放っといたらえぇねん。あほらし・・・ それよか麻太郎。ちょっと付き合うてくれへんか?」
そう言って初音は、少し怪しげな笑みを漏らした。
「は、はい。判りました」
そんな会話をしながら家に着いた初音は、何故か裏口の門を跨いだ。何故、表から入らないのだろう? そんな疑念の答えを見つける間も与えず、初音はどんどんと奥に歩いて行った。話しかける余裕も無かった。そして、普段はあまり使われていない、一つの古ぼけた蔵の前に立った。
「ここは?」
麻太郎の問いには答えず、初音は悪戯っぽく笑った。そしてその扉に手を掛けた。初音の力では素早く開けることは出来ないようだ。体重を乗せて引っ張っても、扉はじりじりとしか開かなかった。麻太郎は初音に代わって、それを開けた。この時の麻太郎の顔を斜に見上げながら、初音は微かに笑っていた。
この蔵の存在は知っていたが、それが開いたところを見たのは、田島屋に奉公に来て今日が初めてであった。中には薄っすらと埃を被った行李や箱が積まれていて、それらが何のための物であるのか麻太郎には判らなかった。ひょっとしたら高価なお宝などが仕舞われてあるのだろうか? 少しかび臭いところからすると、いずれにせよ普段は使うことの無い物たちが収められているのだろう。柱に取り付けられた燭台にちびた蝋燭が乗っていて、初音はその横に備えてあった燐寸を擦って明かりを灯した。揺れる焔が創り出す影が蔵の内壁に反映し、地獄から湧き出て来た魔の物が蠢いているように見えた。初音が言った。
「扉、閉めてんか」
麻太郎は黙って言われるままに扉を閉めた。そして、完全に閉め切ったのを確認して振り返ると、目の前に初音が迫っていた。驚く麻太郎を無視し、初音は麻太郎の身体にそっと抱き付いた。身体が硬直して、どうして良いか判らずやっとの思いで声を出す。
「い・・・ いとさん・・・?」
自分を抱き返してくれない麻太郎に、初音がきっとなって問い質した。
「あんた、雪乃のこと好いてるやろ!?」
「い、いや・・・ そんな・・・」
「嘘言いっ! 判るでっ! 丸判りやっ!」
初音は麻太郎の胸ぐらを掴んで前後に揺すった。背後から蝋燭の焔を受ける初音の顔をはっきりと見ることは出来なかったが、その目は自分の目を刺す様に覗き込んでいることが知れた。おそらく、その視線は華のものとは異なっているのであろうが、光の加減で初音の目を見通せない麻太郎は、想像の上でそこに華の真っ直ぐな眼差しを重ねてしまった。今目の前に居るのが華である様な錯覚に陥った。そして油買い付けの旅先で感じた、自分自身に対する怒りが再びこみ上げた。
棒立ちの麻太郎に業を煮やした初音は両腕でどんと身体を突いて、麻太郎をその場に押し倒した。初音は倒れ込んだ麻太郎の上に跨り、その両肩を抑え付けた。麻太郎はなされるがまま初音を見上げ、初音は麻太郎を見下ろした。それでも初音の顔は蝋燭の焔の影となり、その仔細が見えることは無かった。だがそれは問題ではない。その時、麻太郎が見ていたのは華の姿だったのだから。
初音は少しずつ顔を近づけ、己の唇が麻太郎の唇に触れそうになったところで止まり、含み笑いを漏らした。唇と唇が触れ合う直前、初音は首を右に曲げ、麻太郎の左の首筋に顔を埋め、それから唇を這わせながら艶めかしく舌で舐め上げた。その舌は肩から徐々に上に移動し、左耳元で止まった。初音がその耳たぶを優しく噛むと、女の湿った吐息が麻太郎の耳を満たした。次いで初音は耳たぶを強く噛んだ。その痛みに触発されて咄嗟に体を起こすと、麻太郎は体を入れ替え、今度は初音が下になった。そして両腕で初音の両肩を抑え込んだ。
「麻太郎・・・ あんた・・・」
麻太郎は初音の着物の襟に両手を掛けると、それをぐいと外側に押し広げた。大きく開かれた襟元からは、初音の白くてふくよかな両の乳房が露呈した。初音は、驚きと期待に満ちた顔で麻太郎を見上げた。
「あんた・・・ 女を知ってるんやな? 初心そうな顔して隅に置けんわ、この子・・・」
麻太郎が初音の胸に顔を埋めると、初音は「あははは」と声を上げて笑い、その頭を両腕で抱き締めた。
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