三
「麻太郎! いくで!」
「は、はい。お嬢様」
「その『お嬢様』いうのやめてんか。うち、その呼び方好かんわ。『いとさん』でえぇわ、『いとさん』で」
「わ、判りました。いとさん・・・」
田島屋の一人娘、初音は毎週火曜と木曜に、三味の手習いに通っていた。今日は初めて、その習い場への付き添いとして、麻太郎が荷物を持って同伴したのだ。真ん中で分けた黒髪は艶やかな光を反射しながら、頭の後ろで一つに束ねられていた。そこには煌びやかな七宝焼きと思われる髪飾りが光っている。肌の白さが唇の赤みを際立たせ、男好きのする切れ長の目が、冷たさというか意地悪そうな、その顔の印象を決定づけていた。でもやはり、初音は美しい娘であった。
「何や? うちの顔に何か付いとるか?」
「い、いや・・・ いとさんの様な人は皆もっとハイカラで、洋服着て出かけるもんだと思ってましたから・・・」
薄浅葱の地に青白磁色の矢じり模様をあしらった着物と砥粉色の帯には思った程の豪勢さは無いものの、田舎育ちの麻太郎が見ても上質の生地が使われているのが知れた。それは故郷の山村では、決して見ることの無い代物である。
「あほか。そんなわけ有らへん。洋服なんて着るのは、年に二回ほどや。それとも何か? あんた私が三味やのうて、ダンスやらバイオリンでも習おうとるとでも思っとったか?」
「そういう訳では・・・」
初音は麻太郎を従えて、町内を隔てる水路沿いを歩きながら話をした。こうやって実際に話をしてみれば、初音も普通の娘であった。聞いたところによると、初音は麻太郎より二つ年上の十八歳とのことだった。そのつんとした印象から、取って食われるのではないかと恐れていた自分が、おかしく思えた麻太郎であった。
水面には荷物を満載した小舟が、ゆらりゆらりと二人と反対方向に向かって滑って行った。所々に生えた柳の枝が川面に触れんばかりに垂れ下がり、小舟が作る波につられて、そよ風に煽られたように揺れた。歩きながら初音が言う。
「習いが早うに終わる時もあるさかい、うちが習おうとる間、あんたは表で待ってるんやで、判ったか?」
「はい、いとさん・・・ あの・・・」
「何や?」
「何でいとさんは、僕を指名したんでしょうか?」
ちょっと意外そうな顔をした初音であったが、直ぐに笑顔を取り戻した。
「あんたはそんなこと、気にせんでえぇ」
そう言い残して、初音は習い場の玄関に消えて行った。
「は、はい・・・」
それは、街中の少し奥まった一角にあるこんもりとした森に突き当たる小路で、道の両脇には背の低い家並みが続く物静かな街だった。甘味屋や呉服屋、料亭などに挟まれるように、普通の民家も混じっているようだ。奥は鎮守の森で、それがこの一帯に涼やかな空気を供給している様に思えた。そのうちの一軒に、初音の通う三味の習い所が有る。山育ちの麻太郎にとって街は人の往来も激しく、長くそこに留まると息が詰まる様な苛立たしさを覚えたが、時折目にするこのような森は麻太郎の心に清涼な風を吹き込み、息苦しさから解放してくれた。習い所から漏れてくる三味の音も、心を休めるのに一役買っているようだ。麻太郎は、初音の習いが終わるのを待つ間、ぼんやりと過ごすこの時間を楽しみにするようになっていった。
三味の音が途絶え、何やら会話する声が漏れて来た。そろそろ、今日の習いも終わりのようだ。麻太郎は腰を下ろしていた玄関先の石から立ち上がると、初音が出てくるのを待った。いつものように何人かの娘たちがぞろぞろと出てきて、麻太郎の前を通り過ぎて行く。そして鎮守の森とは逆方向に歩いて、各々が街の中に消えて行った。そして、暫くの後に初音が出て来た。その後ろには、もう一人知らない娘がいる。初音は麻太郎の前までくると、その娘の方を振り返って言った。
「これが麻太郎や。この間からうちで働いてもろてる」
どうやら自分が紹介されているようだ。麻太郎は慌てて挨拶をした。
「ど、どうも。麻太郎です」
「んで、こっちがお友達の雪乃ちゃんや。女学校でも同じ組なんやで」
雪乃は初音とは異なり比較的短めの髪で、少し波打つ細工が施され、年齢よりも大人びた印象を与えた。黒々というより、若干、赤みを帯びた髪質は、体質によるものだろうか。しかしながら丸みを帯びた顔の輪郭は、髪から与えられる印象とは異なり、むしろ少し幼い風で、丸い両目が可愛らしく麻太郎を見つめた。そんな風に見つめられることに慣れていない麻太郎はちょっとだけ狼狽えたが、心の動揺は上手く隠せていると自分では思っていた。その、全体的にこじんまりと纏まった様子の顔立ちは、谷村の華に似ているのであったが、この時の麻太郎は、雪乃の容姿と華を結びつけられるほどの冷静さは持ち合わせいなかった。
「雪乃です。よろしゅう、お願いいたします」
あまりにも丁寧な挨拶に、麻太郎はどぎまぎしながら、もう一度頭を下げた。こんな自己紹介やら挨拶など、村では経験したことが無かったので、どう対応して良いのやらさっぱり判らなかった。
「なら、雪乃ちゃん。また明日な」
「うん、またな。初音ちゃん」
二人は軽い別れのあいさつを交わすと、初音はさっさと歩き出した。麻太郎は急いで追い付き、初音が持つ三味やら譜面を手に取った。そしてもう一度後ろを振り向くと、習い所の玄関先で、まだ二人のことを見ている雪乃に向かって頭を下げた。雪乃は麻太郎に笑顔を作り、また丁寧にお辞儀した。麻太郎は、いつの頃からか忘れていた胸が詰まる様な不思議な想いを、久し振りに思い出していた。
そんなある日、いつものように麻太郎が習い所の玄関先で初音を待っていると、背後から女の声が掛けられた。振り向いた朝太郎の前に雪乃が居た。麻太郎は溢れ出る笑顔を隠すことが出来なかった。それは雪乃も同じで、それを隠すつもりなど無いようだ。
「雪乃さん。今日はお休みかと思ってました」
「ええ、うちもそう思うとったんですが・・・」
そう言って見上げる雪乃の顔を間近で見て、麻太郎の心臓はその心拍を上げた。顔を赤らめる麻太郎に微笑みかけた雪乃は、恥じらいを見せながらもしっかりとした口調で言った。
「ちょっとその辺、散歩しまへん?」
「えっ? あっ、はい・・・」
初音と異なり、少し京ことばの混じる雪乃の口調は、麻太郎の心に言い様の無い感情をもたらした。
「あっ、でも習いがいつ終わるか判りませんので、そんなに遠くには・・・」
「判ってます。その辺、ぶらぶらするだけにしましょ」
そう言って雪乃は歩き出した。
右側を歩く雪乃をこっそりと盗み見ると、麻太郎の心はどうしようもなく揺り動かされた。白い耳の辺りで、まとめ切れずに揺れている一筋の髪。緩やかな曲線を描いて絞られた顎。叩けば壊れてしまいそうな薄い肩。片手でも十分に抱えられそうな細い腰。それらのどれもが、愛おしくて仕方がなかった。ころころと澄んだ音を奏でる下駄に乗せられた、小さな足すらも途方もなく大切な宝物のように感じた。
雪乃の下駄が放つ軽やかな音は、狭い路地の家屋に跳ね返り、不思議に反響した。麻太郎は思い切って訪ねた。
「雪乃さんは、京のお産まれなんですか?」
田島屋に奉公に来るまでは、この辺の言葉に関する知識など持ち合わせてはいなかったが、今では少し聞いただけで、その人の出を言い当てることが出来た。
「いいえ、違います。でも両親が京生まれ京育ちなもんですから、うちも自然とそうなりました」
暫く沈黙が続いた。路地の出口に差し掛かった二人はそこで引き返し、今度は習い所に向かって歩き出した。
その時、近隣に住む子供たちであろうか、二人の男の子がじゃれ合いながら家から飛び出してきて、雪乃にぶつかりそうになった。その弾みで雪乃は体勢を崩し、慌てて麻太郎の腕ににしがみ付いた。雪乃の左手は、麻太郎の右手をしっかりと握りしめていた。麻太郎の体は硬直した。あんなに愛しく感じていた雪乃の左手が、今、自分の右手の中に有る。そう考えただけで麻太郎は、眩暈を起こしそうなほど緊張した。
その手を放さず、雪乃は意を決したかのように聞いた。
「麻太郎さんは、どなたか決まった方はおらはるんですか?」
いきなりの問いに、麻太郎はまごついた。こんな会話を、女性としたことが無かったからだ。しかも手を繋ぎながら。いったいどう答えたものか?
「い、いえ・・・ 特にそういった方は・・・」
少し考えるように麻太郎の顔を見つめた雪乃は続けた。
「初音ちゃんは?」
「は、初音さんは田島屋のお嬢さんです。こんな俺なんか・・・」
その言葉を聞いて、少し安心したような表情を浮かべた。
「さいですか」
二人は、再び習い所の前に来るまで、その手を離さなかった。
この日以来、麻太郎と雪乃は、この習い所の玄関先で逢う度、ちょっとした言葉を交わすようになった。このほんのちょっとの時間が楽しみで、麻太郎は以前にもまして習い所への同伴を心待ちにするようになっていた。とは言え、その場の主導権は常に初音が握っている。初音が「帰る」と言えば、麻太郎は直ぐに帰らねばならない。そのことが判っているのか、雪乃の方も初音より早く習い所から出てきて、なるべく長い時間、麻太郎と話が出来る様に立ち回っていた。麻太郎も、そういった雪乃の心遣いを感じていて、二人は益々惹かれ合うようになっていくのだった。しかし、それを冷たい視線で見つめる初音がいた。
話し込む麻太郎と雪乃の前に、少し遅れて初音が出て来た。初音は話し込む二人を認めると、むっとした表情を浮かべた。そして玄関から通りに降りる小さな縁石を越える際、その脚が何かに躓いた。「きゃっ」と小さな悲鳴と共に、初音がその場に倒れ込んだ。
「いとさん! 大丈夫ですか!?」と駆け寄った麻太郎が言った。
「大丈夫! 初音ちゃん!」雪乃も心配そうに、初音の顔を覗き込んだ。
「うん、大丈夫や。ありがと、雪乃ちゃん。でも・・・」
そう言うと初音は、足をくじいたのか、踝辺りを押さえながら顔を歪めた。
「痛たたた・・・ あかん、麻太郎。うち、歩けへんわ。家まで背負ってってくれるか?」
「判りました、いとさん。急いで帰って治療しましょう」
麻太郎は立ち膝の姿勢で背を向けると、そこに初音をいざなった。初音は足を引き摺りながら、その背中に倒れ込んだ。麻太郎の両腕は初音を支えるために、その尻の下に組み合わされているので、散らばった三味やら譜面は雪乃が拾い集め、初音の手に持たせてやった。
「いとさん! 走りますので、しっかり捉まってて下さい!」
麻太郎は雪乃に軽く会釈をすると、初音を背負ったまま田島屋に向かって駆けだした。初音の顔から笑みがこぼれた。
「麻太郎、そんなに走らんでも大丈夫や。ゆっくり歩きや」
「でも、いとさん・・・」
麻太郎は息を弾ませながら答えた。でもやはり、人ひとり背負って走り続けるのには限界が有る。息を整えるために速度を落とし、そして深く大きく呼吸をした。初音は背中から問いかけた。
「なぁ、麻太郎・・・ あんた、雪乃ちゃんのこと、どう思てんの?」
「えっ・・・?」
あまりにも意外な質問に、麻太郎は返事に窮した。
「どうって・・・」
初音は意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「あんた・・・ あかんで。うちの友達に手ぇ出したら、承知せんからな」
「そ、そんな・・・ 手ぇだすなんて・・・」
「ほんまか? ほんまに判ってるか? 判ってるんならえぇねんけどな・・・」
初音は少し首を傾けて、麻太郎のうなじに頬を添えた。そしてもう一度、小さな声で言った。
「判ってるならえぇねん」
麻太郎は足元を見つめながら、黙々と歩いた。しかしその視線の焦点は何処にも合っておらず、むしろずっと遠くを見ているかのようであった。
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