二
田島屋の主人、松ノ輔が従業員の前に立っていた。
「ここに居るのが、今日からうちで働いてくれる麻太郎や。みんな、よろしゅう頼むで」そして麻太郎の方に向かって言った。「判らんことが有ったら、誰にでも遠慮せんで聞くんやで」
麻太郎は「はい」と頭を下げた。その問屋の従業員は、全部で二十名ほど。それぞれが「何でも聞きや」とか「よろしゅう」などと、口々に挨拶した。その度に麻太郎は、ぺこぺこと頭を下げた。中でも目を引いたのは、一人だけ綺麗な着物を着た娘で、おそらくこの店のお嬢さんであろう。麻太郎より二つ三つほど年上と思しき様子だった。彼女だけは、一人悪戯っぽい眼差しで麻太郎を品定めしている風だ。麻太郎は居心地が悪く、ただ俯いてこの朝の申し合わせが終わるのを待っていた。
「ほな、説明したるさかい、付いて来ぃ」麻太郎の教育係を任されたという、番頭の勘八が声を掛けた。麻太郎は黙って後に続いた。
この浪花で手広く商いを営む薬問屋、田島屋の仕事の基本的な流れは、原料を買い付けて、加工して、売りさばく。簡単に言えばそれだけなのだが、その過程には様々な仕事が存在していた。それらはどれも、山育ちの麻太郎の心を揺さぶるような経験になるであろう。原料を買い付けるためには、日本各地を旅する必要も有ったし、薬剤の種類によってその買い付け先も様々だ。なるべく安く買って高く売るのが商売の鉄則だが、自分の様な性格の者にそのような価格交渉、つまり購買の仕事は難しいであろうと、麻太郎は早々に気付いていた。
同様に、売りさばく方も難しいと感じていた。店に出て客とやり取りするのは、どうしても気が進まなかった。尾根村に居た頃、谷村の連中から野菜を買い叩かれて育った経験が、こういった仕事に対する引け目を感じさせていた。企業向けの商いであっても、基本は人相手に売りつける仕事であろう。やはり麻太郎は、この販売の仕事も遠慮したいと思わざるを得なかった。
一方、原料を薬品に加工し、それを販売用の荷姿に詰め替える製造の工程なら、なんとかなりそうな気がした。とは言え、家庭用の常備薬から病院向けの医薬品、果ては工場向けの油脂類まで扱うこの問屋では、薬品の種類によって取り扱い免許なる資格が必要で、それを取得するのは難しそうだ。複数の原料を組み合わせて新たな薬品を作り出す場合も多く、温度や配合によって変化する薬剤の特性も熟知していなければ務まらない。そういった仕事の責任者になるためには、おそらく高等学校などで学ばねばならないのであろうが、麻太郎には無理な相談だ。取り敢えず、作業員としての経験を積むことから始めるのが良いだろうと思えた。
「以上がここでの仕事の、ざっとした流れや。でも最初はやっぱり雑用からやってもらうことになる」と勘八が言った。
だが、そういった麻太郎の期待に反し、実際に用意されている仕事は雑用しかないらしい。いきなり商品の流れを左右しかねない仕事に従事させるわけにはいかないのだろう。麻太郎はそう考えて自分自身を慰めた。もし自分が経営者だったら、やはりそうするだろうと思ったからだ。
「その雑用をこなしながら仕事を覚えてもろて、適性を見極めた上でどないな仕事に就いて貰うか決めるさかい。えぇな?」
「はい、判りました」
「ほな、先ずは店先の掃除からや。埃が立たんよう、おとなしゅう掃いてんか」
*****
そんな雑用に身を費やす日々が続いた。その内容は店舗の掃除だけにとどまらず、廊下磨きや便所掃除まで含まれた。品物が入荷すればその搬入を手伝い、出荷する際には搬出を手伝った。既に十六歳になっていた麻太郎の溌剌とした力強さは、掃除などよりむしろそういった力仕事で重宝がられたが、勘八からの評価を高めたのは、そのような力仕事における麻太郎の有用性ではなく、元来、真面目な性格で与えられた仕事を一生懸命にこなす、その真摯な姿であった。この真っ直ぐな性格であれば、もうそろそろ、より責務の重い仕事に就かせても良いと勘八は考えていたのだ。
ところが麻太郎に与えられた新たな仕事は、麻太郎の希望とも、勘八の腹積もりとも全く異なるものとなった。
「それは、どういったことをすれば良いのでしょうか?」麻太郎は申し渡された仕事の内容が理解できず、勘八に問うた。
「つまり・・・ いとさん(お嬢さん)の子守りみたいなもんや」
「はぁ・・・ 子守りですか・・・」
「せや。いとさんが『どうしても麻太郎がいい』言いはるもんでな」
「は、はぁ・・・」
「いとさんは女学校の他に、三味とかの習い事にも通うとるさかい、その荷物持ちやら何やらして貰おうっちゅうことやな。若い女が一人で出歩くのも何やしな」
もっと重要な仕事を任せて貰えると思っていたのに、お嬢さんの荷物持ちとは。いささかがっかりした様子の麻太郎に勘八が声を掛けた。
「そう、がっかりするなて。俺もお前には、資材入荷から製造への仕分け計画の立案なんかを任せたいと思てたんや。せやけど、いとさんがそうおっしゃるんやからしゃぁないわな。そのうち、また問屋仕事の方にも戻れるやろ。まっ、それまでの辛抱やと思て、しばらく我慢してくれるか?」
「はい・・・ 判りました」
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