第三章 : 田島屋

 麻太郎が目を覚ますと、そこは馴染みの無い、だだっ広い部屋であった。床から三尺ほど持ち上げられた寝床は西洋風のそれで、身体を動かす度にぎしぎしと音がした。村には有るはずもない清潔で真っ白な掛布が、ここを浮世離れした異界かと思わせた。辺りを見回すと、自分が寝ている寝床と同じような作りのものが数台並べられていて、そこが集団で寝泊まりする宿の様な所だということを窺わせた。麻太郎の横には、鏡の様な滑らかな塗装を施された棒が立てられ、そこにぶら下がるガラス容器の中に透明な液体が満たされていた。その容器から延びるゴム製と思わせる茶色い管が自分の腕に伸び、その液体を麻太郎の体内へと導いている。ここは病院と呼ばれる所であろうと、麻太郎は目星をつけた。そのような施設が尾根村に有るはずもなく、おそらく麓の街に降りてきているのだろう。ただ、何故自分がこんな所で寝ているのか、その理由を思い出すことは出来なかった。

 ふと気づくと、何処かから微かな鼾が聞こえた。隣に並ぶ寝床には誰も居ない。麻太郎が痛む体を推して首を巡らすと、枕元の壁に寄りかかって眠る父、佐兵衛を認めた。佐兵衛は粗末な椅子に腰かけ、腕組みをしながら居眠りしているのであった。麻太郎は声を掛けた。しかし、その喉は永い間使われることが無かったのか、鈍い痛みで締め付けられて思うように声を出すことが出来ない。それが、酷く喉が渇いているからであることに気付くまで、何度かの発声を試みる必要が有った。からからに乾いた口を湿らせるように何とかして唾を飲み下すと、麻太郎は言った。

 「お父・・・」

 最初のかすれた声は、佐兵衛の耳には届かなかったようだ。腕を伸ばせば届く所に居るのに、今の麻太郎にはその様な大きな動作など出来はしなかった。麻太郎はもう一度唾を飲み込み、そして腹に力を込める様に言った。

 「お父」

 安楽な眠りを阻害されたかのように、佐兵衛の顔がうるさそうに歪んだ。その声を振り払い、佐兵衛はまた眠りの淵に身体を横たえようとしたが、頭の何処かでほんの一か所だけ覚醒してしまった部分が、大声でわめき立ててでもいるかのように再び顔を歪めた。そして眉間に皺を寄せたまま、薄っすらと両目を開いた。その目に映っているのは、病室の床であった。この状況を理解する必要に迫られ、佐兵衛の頭は少しずつ睡眠の殻を脱ぎ始めた。麻太郎が再び声を掛けた。

 「お父」

 佐兵衛の顔に、ぱっと光が差した。そして飛び起きて、麻太郎の枕元に飛びついた。

 「気が付いたか、麻太郎!」

 麻太郎は、眠りから起こされた子供の様に、得も言われぬ幸福感に浸っていた。そこには何の不安も苦しみも無く、無垢な子供が毎朝見る当たり前の光景の様に親の顔を認めていた。佐兵衛の目は、幾分涙ぐんでいるように見えた。

 「お父・・・ 俺は何でこんな所で寝てるだ?」


 瀕死の麻太郎を乗せた荷車が山を下り、街の病院に緊急入院したのは一か月も前のことであった。その時の佐兵衛は、荷車を牽きながら慣れない街中を走り抜けた。街ではタクシーと呼ばれる乗り合いの賃走自動車が運用されていたが、山育ちの佐兵衛はそのような制度を利用する方法を知らなかったし、金だって持ってはいなかった。ただ、闇雲に飛び込んだ病院で、「息子を助けてやってくれ」と頼むことしか出来なかった。当然、治療に要する費用を払う当てなど無かったが、医院長の福本医師の好意によって回復するまでの入院が許されたのであった。佐兵衛と千代は、治療費を安く抑えるために交代で山を下り、麻太郎の看病に就いていたのだった。

 一か月間、食事も採らず、点滴による栄養補給のみでしのいできた麻太郎は痩せ細っていたが、長い長い昏睡から目覚めた頭は驚くほどの明瞭さを取り戻し、会話のみで判断すれば著しい復調を遂げていた。意識が戻ったならば、ちゃんとした食事で体力の回復を図る必要が有る。かと言って病院に食事を任せては、入院費が莫大なものとなってしまう。明日からは、食事も山から持って下りねばならないであろう。


*****


 この一か月間の出来事のあらましを聞いた麻太郎は、徐々に「あの時」の記憶を取り戻しつつあった。

 「あれから一か月も寝てたのか、俺は?」麻太郎にはそのような実感が伴わないのであった。

 「そうだ。このまま意識が戻らないことも有るって、先生には言われてたさ」

 「もし意識が戻らなかったら、どうしてただ?」

 「判んねぇ。病院に置いとくわけにもいかねぇから、多分、村に連れて帰っただろうな・・・ にしても意識が戻って良かっただ。午後にはお母が交代でやって来るから、お前の姿見たら腰抜かすぞ、きっと」

 佐兵衛は上機嫌で言った。早く息子のこの姿を千代に見せたくて仕方がないようであった。

 「華はどうしてるだ?」

 佐兵衛は一瞬、ぎょっとした。当然、聞かれるであろう質問であったし、その答えを準備する時間はたっぷり有ったはずだった。しかし、その答えを用意しておくことは、佐兵衛には出来なかったのだ。意識を取り戻した息子に浮かれていた佐兵衛は、一気に現実へと引き戻されていた。しかたなく佐兵衛は、それを先送りにした。それしか出来なかったのだ。

 「ま、村のことは心配するな。今は身体を直すことに専念した方がえぇ」

 「そっか・・・ そうだな。早く治して華に逢いてえなぁ・・・」

 佐兵衛は何も言わなかった。麻太郎はぼんやりと窓の外を眺めた。外には冬枯れの木立が、寒そうな風に揺れていた。木枯らしが奏でる寒々しい音も聞こえる。立て付けの悪い窓の隙間から、それがぴゅうぴゅうと吹き込んだ。

 「村はもう雪か、お父?」麻太郎が聞いた。

 「あぁ。もう雪だ。長ぇ長ぇ冬が始まっただ」佐兵衛が答えた。


 病院での麻太郎は、みるみる復調していった。若いため、その生命力は旺盛で、福本医師も舌を巻くほどの回復だった。ただ、その身体の復活とは裏腹に、麻太郎の心は暗く沈んだままであった。

 「お前、谷村の奴らに何されたか忘れたかっ!」

 「忘れるわけは無ぇさ! だども華は関係無ぇ。どうして華が見舞いにすら来ねぇんだ? 谷村の奴らが邪魔してるだか?」

 「そうかも知れねぇ。俺には谷村のことは判らん」

 「だったら、俺が華に逢いに行く!」

 「やめとけ! 自分の左手を見て見ろ。あいつらが松明で、お前の左手を焼いたんだ。そうだろっ!?」

 麻太郎は焼けただれた己の左手を見た。溶けて固まった蝋燭の様に、その甲の皮膚は醜く流れ落ちていた。今でもそれは、ひりひりとした痛みを伴っている。ただ、どうしてそうなったのか、麻太郎にも記憶に無いのだった。佐兵衛が言うように、谷村の奴らがやったのだろうか?

 「だども、俺は華と一緒になるって約束したんだ!」

 佐兵衛は沈痛な表情を湛え、幾分、穏やかな口調で言った。

 「悪いことは言わねぇ、麻太郎。華のことは忘れろ。谷村の娘と一緒になるなんて、出来るわけ無いさ・・・ 華も今頃はお前とのことは諦めて、谷村で身を固めるつもりなんじゃねぇか?」

 「でも俺は華を好いてるだ! 華がえぇ! 華じゃなきゃ嫌じゃっ!」

 「頼む・・・ 頼むから華のことは諦めてくんろ、麻太郎・・・」

 「お父まで俺たちのこと邪魔するだかっ! 帰れ! もう来るなっ!」

 麻太郎は背中を向けると、頭から布団を被った。その小刻みに揺れる肩は、麻太郎が声を殺して泣いていることを教えた。佐兵衛はかける言葉が無く、ただ黙って病室を後にした。最後に一言だけ言い残して去って行った。

 「済まねぇ・・・ 麻太郎・・・」

 麻太郎は同じ姿勢のまま、声を出して泣いた。

 その日以降、麻太郎は華のことを口にしなくなった。それは、華のことを諦めたからなのか、或いは華を思いやる気持ちから、自分から身を引いたのか、佐兵衛には判らなかった。麻太郎の腹のうちは測りかねたが、ただ表面上は穏やかな日々が続いた。


*****


 退院も間近に迫ったある日、佐兵衛と千代は麻太郎の枕元で相談を持ち掛けていた。麻太郎がどんな反応をするか判らず、二人にとっては気の重いことであったが、もう直ぐ退院することを考えると、待った無しの状況であった。

 「麻太郎・・・ 退院した後のことなんじゃが・・・」

 二人の心配をよそに、麻太郎はきっぱりと言い切った。

 「村には帰らねぇ」

 佐兵衛と千代は顔を見合わせた。

 「そうか。俺もその方がえぇと思う」佐兵衛は胸を撫で下ろすように言った。千代も賛同した。

 「おらもそう思うぞ、麻太郎。お華ちゃんのことは忘れて、街で一からやり直す方が・・・」

 それを聞いた佐兵衛が「馬鹿、余計なことを言うな」という具合に、千代の脇腹を小突いた。千代は首をすくめて黙り込んだ。

 「福本先生の知り合いに薬問屋を営んでるお方がおるらしいんじゃ。ここからはちょっと遠方なんじゃが・・・ そこで住み込みの奉公口の話がある。やってみるか?」

 福本医師の知り合いの問屋で働けば、滞った治療費の支払いは稼ぎから天引きされて、少しずつ病院に還元されるというからくりだ。麻太郎は窓の外を眺めながら言った。

 「あぁ、そこでえぇだ。薬でも何でも構わねぇ」


 こうして麻太郎は尾根村を離れ、一人遠くの街に出て生活を立て直すことになった。その時、麻太郎は二度と尾根村には帰るまいと心に誓っていた。華と一緒になれないのに、華の近くに居ることなど耐えられないだろう。華が谷村の誰かと夫婦になって幸せになるのであれば、それで良かった。ただし、自分がその姿を見ることは決して無いだろうと思ったし、見たくもないと思っていた。

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