三
その計画が実行に移されたのは更に数週間の後で、麻太郎の傷が十分に癒え、山道でも歩けるくらいに体力が回復した頃のことであった。
村が寝静まってから、二人は例の場所でひっそりと落ち合った。木々の合間から見られる空には明るい月が浮かんで、疎らに浮かぶ雲を明々と照らしていた。空気は凛と澄み渡って夏の終わりを感じさせ、漂白されたかのように透明度を増した空気は、月をいつもより近く感じさせた。その月明りは川の対岸の森にも降り注ぎ、艶の有る常緑樹の葉をきらきらと光らせている。その葉影はかえって黒々とし、何者かが息を潜めてじっとこちらを窺っているかのような錯覚を起こさせた。逆に、そのような闇に紛れている自分たちは、容易に見つかるはずはないという安心感ももたらしていた。
「この獣道なら、追手は来ねえ」と華は言った。
「この道、今でも麓まで続いてるのか?」麻太郎は心配そうだ。
「大丈夫だ。それより、お前の身体の方は大丈夫か?」
「あぁ。心配無ぇ」
二人は月明りに照らされた獣道を、手を携えながらゆっくりと歩き始めた。
しかし、不運とはいつもどこかでこちらの隙を窺っているものなのだ。たまたま夜中に厠に起きた伊之助が、華の布団が空になっていることに気付いてしまったのだった。初めはどういうことか理解できず、その風景をぼんやりと見つめるだけであったが、、徐々に目の前で起こっていることの重大さに思い当たるにつれ眠気は醒め、言い様の無い怒りが沸々と噴き上がった。
「麻太郎だーーーっ! 尾根村の麻太郎が、うちの華をたぶらかして連れ去ったぞーーーっ!」
表に走り出た伊之助は、力の限り叫んだ。周りの家々の玄関をどんどんと叩き、更に叫び続けた。谷村の村人たちは、何事かと家から出て来た。中には「子供が起きるから静かにおしっ!」と詰め寄る女もいたが、それでも男たちたちには、徐々に伊之助の怒りが感染し、次第にその目を血走らせ始めた。
「麻太郎が華を連れ去っただと!?」
「間違い無ぇ! あいつ、こっち側の旧道を使ったに違えねぇ! 俺はあいつの性根を知ってただ! だからあいつをぶってやったんだ!」
誰もが得体の知れない物に突き動かされていた。皆が生贄を必要としていたのだ。その対象は、麻太郎でも誰でも構わない。尾根村の奴ならば。男たちは彷徨える亡霊の様に、次々と家々から湧き出てきて、黙々と麻太郎を追い詰める準備を始めたのだった。その手には鎌や斧、鉈などの物騒な物を携えて。中には獣を撃つ銃を抱えている者も居た。谷村の男たちが松明を持って、ほぼ全員集まった頃、燃え盛る焔を振りかざしながら伊之助が雄たけびを上げた。
「山狩りだ! 麻太郎をひっ捕らえろーーーっ!」
その頃の尾根村では、川を挟んだ対岸の谷村に赤々と燃える松明の群れが蛍の様に見えていた。
「谷村の奴ら、こんな夜中に何やってるだ?」
ちらちらと垣間見えるのは炎のみで、谷村の喧騒にも似た男たちの叫びやわめき声は尾根村にまで届いていないが、もし太鼓や笛の音が風に乗って届いていたなら、それはきっと祭りか何かの様に思えたに違いない。
「ありゃぁ、山狩りだな」一人の男が言った。
確かに、一か所に集まっていた蛍の群れは、とぐろを巻いて眠りに就いていた龍が目覚めて活動を始めたかの様に、何かの合図で一斉に麓に向けて移動を開始した。
「狩るって、何を狩ってるだ?」別の男が聞いた。
長い尾を引くその不気味な光の帯は、見る者の心に狐火を思い起こさせた。何か不吉なことが起きようとしている様だった。
「さぁな。あいつらのやることは判んね」
村からかなり離れた所で、麻太郎と華は夜を明かすことにした。ここまで来れば、もう大丈夫だろう。麓までの行程の半分は過ぎているはずだった。二人は寄り添って大木の根元に腰を下ろし、お互いの身体に腕を回して目を閉じた。薄暗い獣道を歩き続けた疲れもあり、二人は直ぐに眠りに引き摺り込まれていった。
そして幾らかの時間が過ぎた頃、麻太郎は何かが聞こえたような気がして目を覚ました。獣か? ぼんやりとした頭で薄っすらと目を開けても、何も見ることは出来ない。月明りに照らされた森の木々が、時折、風に揺られて、さわさわとした音を立てているだけだ。「夢か・・・」再び瞼を閉じようとした時、今度ははっきりと人の声が届いた。
麻太郎は飛び起きた。華は「ううん・・・」と駄々っ子の様な声を漏らしたが、まだ眠ったままだ。麻太郎が声のした方を透かして見ると、梢に茂る葉の隙間から、ちらりちらりと明かりが見える。併せて男たちの猛々しい声も、風に乗って伝わった。麻太郎は華を揺り起こした。
「何だ? 麻太郎・・・」
「谷村の奴らが追って来た!」
華も飛び起き、麻太郎が凝視する方を透かして見た。突然、二人は走り始めた。それは危険な賭けだ。明かりを持たず、暗い山道を走ることなど狂気の沙汰である。かと言って松明で明かりを採っては、逃げている意味が無い。麻太郎は華の手を掴み、獣道の草を掻き分けながら猛然と進んだ。しかし、松明で足元を照らしている追手の脚は、どうしても二人より速かった。次第に距離が縮み、いつしか男たちは、二人の直ぐ後ろにまで迫っていた。
麻太郎が目の前を横切る細い沢を飛び越えた瞬間、華が足を滑らせた。その弾みで、麻太郎の身体は後ろに引っ張られ、二人して流れに落ち込んだ。麻太郎は逃げ切ることを諦めて、男たちをやり過ごすしか手立てが無くなった。二人は方向転換してそこから沢を降り、そして沢沿いの草むらに入り込んで息を殺した。
後から追いついて来た谷村の男たちは、二人が落ちた沢を越えた。そして全員がそこを通り過ぎようかという時、先頭を走っていた伊之助が腕を掲げて皆を制した。
「待て!」
男たちは荒い息を吐き出しながら、その場に立ち止まった。
「この獣道には、往来の跡が無ぇ!」
伊之助の猟師としての経験が、その獣道に対する違和感を告げていた。人や獣が通れば、下草が踏み付けられたり折れたりして、その痕跡が残る。ところが、今、目の前に続く獣道にはそれが無いと訴えているのだ。皆は、伊之助の狩りの熟練は承知しているので、黙って言うことを聞いた。
「二人は途中で道を逸れたか、俺たちが二人を追い越してしまったに違えねぇ!」
「伊之さん、そりゃいったい何処だ?」
暫く考えた伊之助は、何かに閃いた。
「さっきの沢だ! 沢まで戻れっ!」
二人の痕跡が消えた沢との交差地点を中心として、男たちたちは円形に捜査の範囲を広げた。それはまるで、一本の線で空中を走り登った花火が、大きく花開いた様であった。暫くすると、沢の下流側から声が上がった。
「こっちの石が濡れてる! 足跡だ! あいつらは沢を降りたらしいぞ!」
獣道より沢の上流側を探っていた半数が、すぐさま下流側に移動し、その捜索の密度は二倍に跳ね上がった。そして遂にその時が来た。
「見つけたぞーーーっ!」
「麻太郎だ! 華も一緒だ!」
二人は低木の茂みの中で怯える様に抱き合いながら潜んでいた。松明で照らし出された二人の顔には梢の影が映り込み、橙色と黒の濃淡がゆらゆらと揺れている。そのお陰で二人の顔に張り付いた恐怖は影を潜め、大きく見開いた両目だけが印象的に浮かび上がった。一人が麻太郎の髪の毛を鷲掴みにすると、茂みから強引に引き摺り出した。続いて華も飛び出して来た。
「やめてけろっ! 麻太郎に酷えことしねえでけろっ!」
*****
麻太郎は罪人の様に縄に繋がれ、谷村へと戻って来た。華は伊之助に抱えられるようにしながらも、懇願を続けていた。しかし、その声に反応する者は、麻太郎も含めて一人も居なかった。
谷村の中央の広場に放り出された麻太郎は、後ろ手に両手を縛られているせいもあり、その場に倒れ落ちた。そして近付いて来た伊之助が、這いつくばる麻太郎を見下ろした。何を言うのか、村人たちは固唾を飲んだが、伊之助は何も言わなかった。そして次の瞬間、その無言を貫いたまま麻太郎の顔を蹴り倒した。
「うげっ」麻太郎の口から、折れた歯が飛んだ。華が悲鳴を上げた。
「やめろ、お父っ! やめてけろっ!」
麻太郎は口から血の混じった唾液を垂れ流した。伊之助は次に腹を蹴り上げた。華の悲鳴は絶叫に変わっていた。
「やめてけろっ! お願えだから、やめてけろっ!」
自分の娘の声を無視し、伊之助は周りの男たちに向かって言った。
「おめぇたち! 尾根村のやつら、許してえぇのかっ!」
「許さねぇっ!」一人の男が叫んだ。
「こいつらのせいで、乙吉が杖突きになっちまっただっ!」別な男も叫んだ。
「俺はもう、勘弁ならねぇっ!」
「思い知らせてやれっ!」
「そうだ、そうだ!」
麻太郎を囲む輪が徐々に狭まった。異様な興奮に憑りつかれた男たちが、沈黙のまま麻太郎を見下ろした。そして一人が麻太郎の腹を蹴った。「うっ」という声が漏れた。別の一人が、今度は顔を蹴った。麻太郎は「がっ」という声を上げた。それを合図とするかのように、全員が好き勝手に蹴りだした。最初は躊躇いがちに、だが次第に熱病にうなされる病人の様に、或いは地中から湧き出て来た亡者の様に、ただ黙々と麻太郎を蹴り始めた。その度毎に麻太郎の呻き声が聞こえ、体中から出血した。骨が折れる音も聞こえた。そして次第に麻太郎の声は聞こえなくなり、ぐたりとした獣のようになった。それでも男たちは、蹴ることを止めなかった。そのうち「くそっ」「この野郎」と、蹴る度に恨めし気な悪態も出始めて、しまいには女衆も蹴りだした。そして最後に、子供たちすらその狼藉に加わる頃には、谷村の皆の目は気がふれたかのように血走り、常人の物ではなくなっていた。
「死んじまえ、この野郎っ!」
「虫が好かないだよっ、お前たちはっ!」
「思い知ったかっ!」
伊之助の腕から逃れた華が村人の輪に飛び込んだ。そして麻太郎の上に覆い被さった。
「やめろっ! 麻太郎が死んじまうっ! やめてけろ、お願えだ!」
しかし伊之助は華の襟首を掴んで強引に麻太郎から引き剥がすと、その顔を何度も往復の平手打ちで打ち据えた。麻太郎は途切れそうな意識の片隅で、その光景を見た。血と涙で潤む目には、その場に崩れ落ちる華の姿が滲んでいた。
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