第二章 : 山狩り

 いつもの様に麻太郎は谷村を訪れた。風呂敷の中には夏野菜がどっさりと仕舞い込まれていた。そこに伊之助が真っ先にやって来た。麻太郎は言った。

 「今日は胡瓜が沢山有るよ、伊之さん」

 「それを全部よこせ」

 「は?」

 「それを全部よこせと言ったんじゃ」

 「そりゃ構わねぇが、全部だと三十銭は必要だぞ」

 それを聞いた伊之助は懐から三銭を取り出すと、それを麻太郎に叩き付けた。

 「何するだ、伊之さん。三銭じゃぁねぇ。三十銭だ」

 「やかましい! 口ごたえするな!」

 伊之助が背後に隠し持っていた米つき棒でいきなり麻太郎の頭を殴りつけると、「ごんっ」という鈍い音を残して麻太郎の身体はその場に崩れ落ち、ほぼ意識を失いかけた。殴られた頭はぱっくりと割れて、そこから血が噴き出していた。それでも伊之助は、倒れた麻太郎の背中を打ち続けた。

 「この野郎。この野郎。生意気な口ごたえばかりしおって」

 伊之助にとっては理由など何でもよかった。麻太郎が口ごたえさえしてくれえれば、それを殴りつける理由にするつもりだったのだ。朦朧とする麻太郎は辛うじて頭を抱え、米つき棒が打ち下ろされる度に、苦しそうな呻き声を漏らした。その様子を見ていた村人たちも、さすがに伊之助を止めに入っる。

 「伊之助さん、そりゃ無茶だ。あんたやり過ぎだよ」

 「いくら尾根村の奴だって、そこまでしちゃぁいけねぇ」

 そんな制止も、伊之助の常軌を逸した暴力を止めることは叶わなかった。

 「この野郎! この野郎! この野郎!」

 家畜を撲殺する時と同じ音が、谷村に響き続けた。


 殴り疲れた伊之助が引き上げると、そこには血で赤く染まったぼろ布の様な麻太郎が残された。谷村の者たちは途方に暮れた。当の伊之助が立ち去ってしまって、どうすべきなのか誰も決められない。この異常な事態に対し、積極的に関与することもはばかれたし、麻太郎のこの様子では、自らの足で歩いて尾根村に戻ることは出来ないだろう。かと言って見捨てることも出来るわけがない。仕方なしに腕っぷしの強い男たち数人が、麻太郎を担いで尾根村へと向かうことになったのだった。


 交互に麻太郎を背負って来た男たちが尾根村に着くと、最初は 子供たちが物珍し気に騒ぎ立て、それを聞いた村人たちが徐々に集まり出した。

 「麻太郎でねぇか! どううしただ!」

 「何が有った!?」

 尾根村の者達が谷村の男たちに詰め寄った。谷村の男たちは口ごもりながら、合わせた口裏通りに言った。

 「俺たちは何も知らねぇ。麻太郎が倒れているのを、伊之助が見つけたんだ」

 尾根村の奴がどうなっても知ったことではないが、厄介事に巻き込まれるのは御免だった。谷村の男たちは、全ての責任が伊之助に有るということで ― 実際にそうなのだが ― 麻太郎を運ぶ道中で話を合わせていたのだ。事の真相はいずれ明らかとなってしまうであろうが、伊之助のせいで自分たちに責任が追わされることは避けたかったし、それを避ける権利は有るはずだという合意に至っていた。

 「そうだ。俺たちは運んで来ただけだ。伊之助に聞かねば詳しいことは判んねぇな」


*****


 村人から漏れ伝わる話を聞けば、父が麻太郎を痛めつけたことが知れた。華は伊之助を問い詰めた。

 「お父! 麻太郎に何をした!?」

 それでも伊之助は黙って酒をあおるのみで、華の問いに答えようとはしない。

 「何でそんな酷いことする!? 麻太郎がお父に何をしたっ!?」

 囲炉裏の前で胡坐をかいて座る伊之助に、華が掴みかかると、伊之助の持つ湯呑から酒がこぼれた。

 「お父! 何とか言えっ!」

 かっとなった伊之助が、華の頬に左手の甲で平手打ちを喰らわせ、華は部屋の隅まで吹き飛ばされた。伊之助はまた黙って一升瓶から酒を注ぎ、それをぐいとあおった。部屋の隅に崩れ落ちた華が恨めしそうに、声を殺して泣いた。

 その後、両村の村長が立ち合いの元で事情の聞き取りが行われたが、当の伊之助は黙して語らず、谷村の村人たちも「知らぬ、存ぜぬ」で、結局、麻太郎の身に何が起こったのか判然としなかった。ただ、傷の具合からして、決して谷底に滑落したわけではないことは明白である。この事件を機に尾根村では、谷村に対する憎悪が燻り始めたのは自然の成り行きだろう。

 「谷村の奴らがやったにちげぇねぇ」

 「あいつら、調子に乗って好き放題やりやがって」

 「この落とし前は、いずれ付けにゃぁなんねぇ」

 こういった荒ぶる感情は、決して麻太郎の身を案じて出てきたわけではなく、元々消えることの無かった憎悪の熾きに、新たな薪がくべられたと言ってよかった。小さな炎は次第にその火力を増していくのだった。


 そんなある日、谷村の若い男が猟の最中に足を滑らせ、谷底に転落するという事故が発生した。谷村の男たちはこぞって現場に赴き、歩けなくなった男を代わる代わる担ぎ上げるという、大そうな救出劇となった。助け出された男は荷車に乗せられ、麓へと続く小径を病院を目指して運ばれていったが、そこに尾根村の男たちが先回りし、荷車や牛車に乗せた荷物で道を塞ぐという仕返しが行われた。

 「早く通してくんろ! 乙吉が怪我してるんだ! 麓の医者に見せねば!」

 「そんな言われてもだな、うちのべこは足が遅ぇんだから」

 「道を空けてくれねぇか!?」

 「この荷物は重ぇから、脇に寄せたら車が回らなくなっちまうだ」

 柳行李や駕篭、長もちの中身はほぼ空であったが、尾根村の男たちは少し進むのも休み休みで、正に牛歩の歩みで乙吉の通過を阻止し続けた。こうして両村の仲違いは決定的となり、その一触即発の関係性が危うい均衡の元で続いたが、それが崩れるのは時間の問題であった。いや、既に崩れ始めていたのかもしれない。

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