その年はいつもに増して暑い夏が訪れていた。梅雨時に降った雨も僅かばかりで、山はからからに干からびているような有様だった。谷間を流れる川もその水位を落とし、細くなった流れが心細げに岩々の肌を舐めていた。水音も心なしか控えめであった。

 うだるような暑さに水温も上がり、冷水を好む岩魚もその数を減らしていた。尾根村の更に下流から川に降り立った伊之助は、下がった水位のせいで神経質になった岩魚が思うように釣れず、いらいらしながら遡行していた。いつもなら面白い様に釣れる大淵も、今年は小さな水溜まりに過ぎず、伊之助が苦心してこさえた毛針は、ことごとく岩魚たちに無視されていた。「くそっ」先ほどからそんな独り言が、伊之助の口を突いて漏れ続けていた。


 元来、伊之助は腕のいい猟師であった。一たび山に入れば必ず、雉や山鳥などの他、兎や狐、狸なども捕らえて来た。時には村の男たち数人で徒党を組み、猪や鹿、或いは熊などの大物も獲物とした。罠を使った猟だけでなく、銃による狩りにも長け、村で一二を争うと自他が認めていたものだ。しかしながら、七年前に妻を病気で失ってからは、伊之助の中に赤々と燃えていた猟への情熱は冷え固まり、無気力な毎日を過ごす様になって久しかった。苦労の多い猟からは足が遠のき、今では楽に獲物が採れる釣りしかやらない。妻が亡くなった当初は村人にも同情が広がり、いずれは以前の伊之助に戻ってくれると思われていたが、それらの期待に応えることも無く、そのまま息を引き取るかのように、猟から身を引いてしまった。一人娘が居たが、その存在によって伊之助が奮い立つことも無く、ただただ無益に人生を浪費していた。


 その時、左岸の森の隙間に、見慣れぬ白い何かを認めた。生い茂る緑に遮られ、時折ちらりと垣間見える風情には倒木の影に潜む銀嶺草のような秘めやかさが有ったが、それには動きが感じられた。兎か? 鼬かもしれぬ。伊之助は狩りの道具を村に置いて来たことを後悔した。これ以上粘っても岩魚が釣れることは無さそうだ。伊之助は釣り竿を河原に置くと、その兎に向かってそっと近づいた。土手に取り付き、ゆっくりと登った。あまり急いで近付いては逃げられてしまう。それを素手で捕えられるとは思えなかったが、運が良ければ、今夜は兎鍋で一杯やれるかもしれない。毛皮は冬の為に取っておこう。そして、そうっと枝を除けて覗き込んだ伊之助が見たものは、兎ではなかった。

 それは、薄暗い森の中に白く浮かび上がる、怪しく絡み合う男と女の脚であった。膝高の石の向こう側に、草を均して人が横たわれるほどの広さを湛えた平らな場所で、その二人は重なり合っていた。はだけた着物の裾から延びる女の脚は、艶めかしく男の脚に絡み付き、その淫猥さを強調している。男は女の胸元に顔を埋め、その白い肌を貪っていた。永らく女の肌に触れていない伊之助は、草むらに隠れたまま、その情事を覗き続けた。男の腰の動きに合わせて漏れる女の呻きは、まだそれが年端もいかない小娘のものであることを教えたが、また同時に、お互いの身体を知り尽くした様子も伺えた。時折もれ聴こえる甘美なうめき声は、風に揺らぐ木々の囁き、何処かで翅を休める鳥たちの声、草むらに潜む虫たちの歌、背後から覆い被さる清流の音色など、それら森の音に溶け込んでいった。その幼くも一途な交わりは、自分の若かりし頃を思い出させたが、伊之助は、その乱れた着物の柄に見覚えが有ることに気が付いた。

 それは華のものだ。自分の娘だった。そして最近、娘が作る食事に様々な野菜がふんだんに使われている理由が腑に落ちた。

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