翌週、麻太郎が再び谷村を訪れた時、河原でも村でも、華を見かけることは出来なかった。逢いに来てくれるのではないかという、淡い期待は裏切られ、結局、野菜を売りさばいている間も、華が姿を現すことは無かった。野菜は例によって買い叩かれ、重い気持ちと重い脚を引き摺ってとぼとぼと谷村を後にした麻太郎が吊り橋に向かう小径を降りて行くと、なんとその先に華が居るではないか。両手を後ろに組み、吊り橋の手前で下草を蹴りながら、暇を持て余している風情だ。ところが、小径を降りてくる麻太郎を認めた瞬間、その表情をほころばせ「早く降りてこい」という風に、じっと見つめた。麻太郎は鼓動が速くなるのを感じたが、努めて平静を装いながら、あえてゆっくりと降りて行った。

 吊り橋の手前で二人は向き合った。自分の心臓の音が聞こえはしまいかと、麻太郎が心配になるほど、その鼓動は早鐘のようであった。

 「こっちだ」華はいきなり麻太郎の左手を掴むと、吊り橋の方には折れず、そのまま川に沿って続く獣道を進んだ。麻太郎は手を引かれるままに、黙ってその後に続いた。


 「ここは?」辺りを見回しながら不思議そうに問う麻太郎に、華が少し得意気に言った。

 「おらの秘密の場所だ」

 それは、川が左に曲がる部分に突き出した岬の付け根に当たり、両村を繋ぐ小径からは見通すことが出来ない、隠れた一角であった。谷村から山を降りる為には一度川を渡って、尾根村側に続く小径を通る必要が有るが、かつては、谷村側の尾根伝いにも麓へと延びる道が有ったのだ。冬の崖崩れが多いため今は使われておらず、その道は草に覆われ、獣道と化している。その途中にある少し開けた場所が、華の秘密の場所であった。古ぼけて、頭の半分が欠け落ちた地蔵の横に控える膝高くらいの石に、二人は並んで腰を下ろしていた。華はまだ麻太郎の左手を握ったままだ。

 「へぇ、こんな道が有ったのか。ここには地蔵様までいらっしゃるでねぇか」しきりと珍しがる麻太郎に向かって華が言った。

 「お前を待ってたんだぞ、麻太郎。おらはもう待ちくたびれた」

 「えっ?」その言葉の意味は判ったが、遊び慣れているわけでもない麻太郎には、こういった場合どのように答えて良いのか判らず、ただ相手の顔を見つめ返すことしか出来なかった。遊び慣れた男であれば、何か気の利いた返しが出来たであろうに。それよりも何よりも、女からそのような気持ちを伝えられた経験の無い麻太郎は、自分の置かれている状況を飲み下しかねていた。

 「な、何で俺を・・・?」

 その間の抜けた問いに対し、華は麻太郎の手を握る右手に力を込めながら答えたが、それは質問の答えになってはいなかった。

 「お前にこの秘密の場所を教えようと思ったのさ」

 こんな行き違いの会話すら、男と女の間に交わされる言葉遊びの一つなのだろうかと、初めての経験に麻太郎はくすぐったい想いであった。

 突然、華が手を離し、二人が座る石から飛び降りた。

 「明日も来い。ここに来い」華は麻太郎の目をじっと見据えた。

 「う、うん」

 華はまたしても走り去り、そして麻太郎だけが取り残された。左手に残る華の柔らかくて暖かな感触が、いつまでも麻太郎の心を満たしていた。その手を鼻に持っていくと、そこには華の匂いが残っていた。


*****


 「お前はそんなだから駄目なんだ、麻太郎」

 「だって仕方ないさ。『まけろ』言うんだから」

 「それを突っぱねるだよ。『まからん』って」

 「そんな言うてもだな、華・・・」

 「あははは。お前に商売は向いとらん。全然向いとらん」

 相変わらず、こんな他愛も無い会話が続いていた。以前と違うところは、華が麻太郎の身体に、自分の身体をぴたりと寄せていることくらいだろうか。華はいつも麻太郎の左側に座り、その右腕は麻太郎の左腕に絡んだり、腰に回したり、或いは肩に掛けたりしていた。麻太郎の左腕もぎこちない動きながら、華の腰や肩に添えられるのであった。男のものとは全く異なる、その腰の細さや肩の薄さを感じる度に、華を愛おしく思う気持ちが募るのを抑え切れない麻太郎であった。

 「華の家族はどんなだ?」

 「お母は随分前に、病気で死んじまっただ。おら、小さかったからよく覚えてねぇ」

 「そっか・・・ じゃぁお父は?」

 「お父は好かん。お母が死んでから、おらのことぶつようになったし、酒は呑むし、真面目に働かんし・・・」

 「そ、そっか・・・」

 「お前のところはどうなんだ、麻太郎?」

 「うちか? うちは・・・」

 麻太郎はちょっと考えてから続けた。

 「お母は優しい。でも、お父は直ぐにぶつ」

 「そうか・・・ どこの親も同じなんだな」

 いつもは朗らかな華も、身の上話に関しては口が重くなった。その言葉の端々に隠された、父親からの乱暴を感じる度に麻太郎は、言い様の無い気持ちに襲われた。自分が華を守ってやらねばと、常々思うのであった。

 「俺が華を守る」

 「本当か?」

 「あぁ、俺が守ってやる」

 「麻太郎・・・」

 そう言って華が麻太郎の身体に腕を回して抱き着くと、麻太郎も華のか細い身体を抱きすくめた。そんな心の昂りの度に、いつしか二人は唇を重ねる様になっていった。


*****


 谷村に野菜を売りに行く前に、麻太郎は秘密の場所にやって来た。

 「華、今年初の西瓜を持って来てやったぞ」

 「おぉ、西瓜か。おらの大好物だ」

 いつものように、華が先に来て待っていた。

 すこし小ぶりの西瓜を、麻太郎は腰にぶら下げた鉈で半分にし、それを更に半分にした。そして石に並んで腰かけ、二人でそれにかぶり付いた。華はご機嫌だった。

 「もう直ぐ夏だな」華が西瓜の種を飛ばしながら言った。

 「あぁ、これからどんどん暑くなれば、茄子やら胡瓜やらも沢山採れる。そしたら持って来てやるからな」麻太郎も負けじと種を飛ばした。

 「おら、茄子は嫌いだな」

 「またそんなことを・・・」

 いつしか二人が、二人で築く新しい生活を夢見る様になっていったのは自然の成り行きであった。それを邪魔することなど、誰に出来ようか。こうやって人目を忍んで逢引きする度、二人は夢を語り合った。


 「街に出てどうするだ、華?」

 不安げな麻太郎に、華は言ってきかせた。華の口の横には、スイカの種が一粒くっ付いていた。

 「そんなことは行ってから考えればいいさ。何とかなるに決まってる。お前は頭がいいから、どんな仕事だって直ぐに覚えるさ。そうだろ、麻太郎?」

 顔に付いた種を取ってやりながら、楽天的な華に麻太郎が苦言を呈した。華はくすぐったそうに首をすくめた。

 「何とかなるっつってもよ、やや子が出来たらどうするんだ? 街じゃ野菜作って暮らすわけにもいかねぇぞ。地所だって無ぇし」

 赤い実の部分が無くなって、もう青臭い汁しか出て来なくなった西瓜の皮を後ろの草むらに放り投げながら、華は言った。

 「何だってあるさ、街なら。それよか、ここに居たらいつまで経っても一緒になれねぇ。お父が許してくれるはずもねぇし」

 「そ、そりゃぁ、まぁそうじゃが・・・」

 「しっかりせぇ、麻太郎。男だろ」

 「う、うん・・・」

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