「尾根村から来たぞーーーーっ!」

 隣村の中心付近にある寄合所の前で、背中から荷物を降ろした麻太郎は、首に回した手拭いで額に光る汗を拭うと、両手を口に当て大声で己の来村を告げた。それを聞いた村人たちが、のそのそと家から出てきて、麻太郎の周りに集まり出した。赤子を背中に背負って洗濯物を干していた女なども、一旦その手を休め、家の中から何かを携えてやって来た。男たちは猟にでも出ているのか、集まるのは女子供が多く、他は老人ばかりである。その村人たちを前に、麻太郎が背負って来た風呂敷を広げると、そこには芋やら大根やらの野菜が並んだ。

 一人の女が一束の青菜を拾い上げ、しげしげと眺めた後に「二銭」と言った。麻太郎はもごもごと口ごもりながら、小さな声で「三銭」と返した。それを聞いた女は言った。

 「何だと? 冗談じゃないさ、がめつい子だね。尾根村の奴らは、こんなのばっかりだか?」

 「で、でも・・・」尚も口ごもる麻太郎に向かって女は言った。

 「二銭くれてやっから、ごちゃごちゃ言わないで、その青菜をさっさとよこすだ!」

 そう言うと、麻太郎の返事を待たず金に投げ付け、女は青菜を掴んで立ち去った。

 今度は、一人だけ混ざっていた伊之助という男が大根一本と岩魚二尾を交換しようと持ち掛けた。白髪交じりで短く刈り上げた頭髪は薄くなり始めており、痩せた身体が歳を感じさせた。日に焼けた顔と、そこに深く刻み込まれた皺もその年齢を物語っていたが、鋭い眼光だけは今もなお猟師としての光を湛えている。硬く引き締まった筋肉は、若い頃であればきっと山深く切れ込んだ過酷な猟にも音を上げず、俊敏な動きをもたらしていたに違いない。しかし今となっては、多少のいかつさを残した雰囲気が、近寄りがたく偏屈な性格を強調しているに過ぎなくなっていた。

 だが麻太郎は「岩魚じゃ駄目だ」と突っぱねた。岩魚など川に行けば幾らでもいたし、簡単に釣り上げることが出来る。はっきり言って、この山里では岩魚に商品価値など無かった。むしろ鰍の方が貴重と言えたが、それを聞いた伊之助は顔色を失って、げんこつで麻太郎の頭を思い切り殴りつけた。

 「生意気言うんじゃねぇ! そんな大根、岩魚二尾で充分じゃ!」

 負けじと麻太郎も言い返す。

 「駄目だ! 岩魚じゃぁ、俺がお父にどやし付けられちまう!」

 「うるさい! さっさとこれで交換しろ!」そう言ってもう一度、麻太郎を殴った。頭を抱えながら麻太郎が言う。

 「駄目だ、駄目だ! 絶対、駄目だ!」

 「まったく、意地汚ぇ餓鬼だ!」

 今度は足蹴にして、倒れ込んだ麻太郎の腹を蹴った。周りにいた子供たちは「わいわい」とはしゃいで騒いだ。それでも麻太郎は「駄目だ」と言い続けた。蹴ることにも疲れた伊之助が息を切らしながら呻いた。

 「けっ、糞がぁ」

 そう言い捨てると、伊之助は家から持ってきた籠の中の岩魚三尾を投げ付け、引き換えの大根を乱暴に持ち去った。伊之助はいつも、麻太郎に不公平な交換を持ちかけてくる。大根と引き換えが岩魚では、父親からどのような叱責が飛ぶか判らない。客と言えば客だが、出来れば付き合いたくない男だった。父親からの折檻よりは、伊之助の乱暴の方がよっぽどましだったが、今日はまんまと持って行かれてしまった。村に帰った後の父親の反応を想像し、麻太郎は暗い気持ちに苛まれた。

 伊之助の狼藉が済むのを待っていた別の女が、雉を丸々一羽差し出した。それは見事な牡の雉だった。女にその首根っこを無造作に握り潰され、だらりと弛緩した体に生命は宿ってはいなかったが、赤い顔を支える瑠璃色の首は今もなお不思議な光沢を放ち、あたかも生命の残渣がそこに潜んでいるように見えた。大きく膨らんだ腹の緑も陽の光を反射し、かつては力強い羽ばたきを見せたであろう翼を従えて、鳥としての尊厳を保っている。長く伸びた尾羽は交互の縞模様を備え、それは祭りなどに用いられる衣装に、厳かな飾りを付与するに十分な艶を保っていた。

 「そこの芋ひと山と人参五本・・・ それから、そっちの豆も一束。あと葱もだ」

 麻太郎は伊之助が投げ付けた岩魚を自分の籠に仕舞いながら、慌てて言った。

 「いくら何でもそれは欲張りすぎじゃ。雉一羽とそれじゃぁ、割に合わねぇ。人参は無しにしてくんろ」ずしりと重く痛む腹を抱えながら、麻太郎は言った。

 「何言ってるだ! こんな立派な雉、あんたらに捕れるものか? 人参も付けなきゃ、話は無かったことに・・・」

 「頼むよ、おばさん。お願ぇだよ」

 「嫌ならいいさ。売れ残った野菜持って帰って、お父にこっぴどくぶたれるがいい」女は見下すような視線を、麻太郎に投げかけた。

 「お願ぇだよ・・・」麻太郎の声は沈んだ。

 「換えるだか? 換えないだか?」女は尚も高圧的に詰め寄った。

 「・・・換える・・・」最後は何と言っているのか聞き取れないほどの弱々しい声だった。

 「どうせそうなるんだ。最初っから素直におしっ! 鬱陶しいったらねぇだ!」そう言って女は雉を置き、野菜の山をごっそりと持って行った。最初に女が言った以上に多くの野菜を抱えていたが、麻太郎は何も言えなかった。


 大方の野菜を売り尽すと、いや持ち去られると、麻太郎は懐に溜まった幾らばかしかの金をじゃらじゃらさせながら、交換で貰った魚やら鳥やらを風呂敷に包み、再びそれを背負って村を後にした。商売が上手くいったわけではなかったし、父親の折檻が待っていることは明らかであったが、来る時よりは随分と軽い荷物が麻太郎の足も軽くしていた。


 ここは谷村。麻太郎が住む尾根村とは異なり、谷間の奥深くに切れ込んだ村落で、野菜などを収穫できる平地は少ない。その代わり、山や川での猟、または漁で糧を繋いでいる。一方、尾根村では比較的豊富な平地を抱え、そこで栽培される野菜が主な食料源となっていた。これら二つの村では、かねてより独特の物々交換の伝統が息づいており、金銭による売買の他に、お互いの獲物を持ち寄ったこの様な交流が続いていたのであった。西洋文明の流入に伴い加速する近代化に取り残されるような農村や山村が、この当時の日本各地には、まだ数多く存在していて、尾根村、谷村の様な、いまだ行政区画の網にかからない名も無き村々がひっそりと息づいていたのである。

 ただ、そういった表面上の付き合いとは別に、この両村には長年にわたる確執の様なものが横たわっていた。尾根村の連中は谷村の連中を野蛮だとか頭が悪いと思っていたし、谷村では尾根村の連中を意地汚いとか強欲だと言っていた。お互いがお互いのことをよく思っておらず、むしろ仲違いしていると言った方が、その状況を的確に表していた。その性根の部分では、相手を蔑み、憎み、毛嫌いしていたのであったが、麻太郎の様な子供がその伝統に毒されるには、もう少し時間が必要なのであった。


 両村を分かつ川の左岸に足取りも軽く降り立った麻太郎は、そこで改めて、行きに娘を見かけたことを思い出した。急にあの時の不可思議な感情の起伏を思い出し、麻太郎はそっと河原を覗き込んだ。あれからだいぶ時間が過ぎているので、娘がまだそこに居るとは思えなかったが、それでも麻太郎は期待に胸を膨らませて、そうっと吊り橋を渡り始めた。果たして、娘の姿は何処にも見当たらなかった。上流側にも下流側にも、あの場違いな色を見出すことは出来なかった。なんとなく沈んだ気持ちを抑え切れず、ため息をつきながら吊り橋を渡り始めると、尾根村の方から吊り橋を渡って来る人の姿を認めた。あの娘であった。

 娘はお構いなしにずんずんと進んだ。麻太郎は進んで良いものか、引き返すべきか決めかねて、そこで立ち止まった。尚も近づいて来る娘が、麻太郎の目の前で止まった。二人は吊り橋の上で向かい合った。麻太郎はまた唾を飲み込んだ。

 その身長は麻太郎の鼻の辺りまでしかない。麻太郎の顎の辺りにある少し伸び過ぎたおかっぱ頭が、幾分幼い印象を与えた。黒く艶やかな髪は、幼児のそれの様にしなやかでか細く、風が吹くたびにさらさらとなびいていた。そのくるりとした大きな目から類推するに、麻太郎と同じくらいの歳であろうか。黒目がちな眼差しが人の心を見通すような色は放ってはいるが、でもそれが、かえって娘の愛らしい顔立ちを際立たせていた。瞬きの度に揺れる長い睫毛が、男とは違う生き物であることを主張している。しみの無い滑らかな肌は白く張りが有り、少し赤らんだ頬は雪の多いこの地方に特有の趣だ。つんとした鼻と少し上を向いた口角は好ましく、それら全てが小さくまとまった顔に配置され、麻太郎の視線を捕らえて放さなかった。娘は悪戯っぽい笑顔で麻太郎を見つめた。その顔には何の悪びれた様子も見られず、無邪気な様子だった。麻太郎は虚勢を張った。

 「谷村の者か?」

 「そうだ。お前は尾根村の麻太郎だろ?」

 「何故、俺のことを知ってる?」

 その問いには答えず、娘は両手で麻太郎の腰の辺りをむんずと掴むと、体を入れ替える様にするりとかわし、自分は谷村側に立った。そして笑った。

 「あはははは」

 麻太郎が振り返ると、娘は笑いながら土手を登って行った。その背中に問いかけた。

 「名前は?」

 娘は足を止めて振り返ると、大声で言った。

 「華」

 そしてまた走る様に土手を登り、谷村へと続く小径を駆けて行った。

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