第一章 : 尾根村と谷村

 こここここ、という幾分甲高い音が、森をぬって響いていた。啄木鳥だろう。ここから見下ろす巨木の群れの中のどれか一本にその音の主が潜んでいて、先ほどからしきりに自らの嘴を樹皮に突き立てている。熊笹の茂る斜面のあちこちから垂直に延びる山毛欅(ブナ)や椚(クヌギ)が、頭上を覆う枝葉の天井を支える柱の様に林立し、あたかも緑の天と緑の地を分かつ伽藍の様な空間が、麻太郎の視界を満たしていた。冬の雪の重さに堪えかねた柱は所々でその役目を終え、緑の天井に穿かれた大穴からは乾燥した光が滝の様に降り注ぎ、朽ち始めた柱を明るく浮かび上がらせている。既に眠りに就いた柱の多くは、羊歯植物の浸食に逢い、今となってはこんもりとした隆起によって、その存在の痕跡を残すのみとなっていた。

 この斜面を降り切った底には、渓谷を刻む清廉な流れが有るはずだが、そこに視界が届く前に天と地の緑は重なって混ざりあい、その先を見通すことを許さなかった。麻太郎に水脈の存在を知らしめるのは、啄木鳥の音の間隙を埋めるように満たされた、清流が岩を洗う水音だけだ。蝉の高唱が、それら全ての森の音色に覆いかぶさり、厚みを増した圧倒的な音圧が麻太郎を包み込んでいた。

 歩を進めるにつれ、常ならざる侵入者に驚いた山鳥が、時折、ばさばさと麻太郎の足元より飛び立った。奥の巨木の影では、鹿が草を食みながら闖入者の動向を注意深く見守っている。気が付けばその小径は随分と高度を下げていたようだ。いつの間にか大きくなった水音が水線の近さを教えていた。薄暗い森の中から風に揺らぐ枝葉を透かして見る渓流では、大小の白い岩々が眩しく輝いていた。小径脇の山毛欅の木肌に刻み込まれた鉈目を頼りに右に折れると、幾分急な斜面をかわす様に、つづら折れとなった小径が続き、そして川の右岸へと麻太郎を導いた。


 それは、麻縄で渡された小さな吊り橋であった。水面からの高さは、人の背丈の二倍程で、本来であればその川を渡ることなど造作も無いのであるが、大雨の後の出水の際や、今の麻太郎の様な者にとっては、有難い一助となっていた。麻太郎は背中の大きな荷物を背負い直すと、必要以上に吊り橋が揺れない様、ゆっくりと渡り始めた。

 それは左右の両手がそれぞれ掴む縄二本と、それらと下向きの楔形を成す一本の縄の計三本が、流れの両岸を繋ぐ様に渡されることで形成されている。両手の二本は、まだ十五歳の麻太郎の手に余る太さで、足元のそれは手元の縄を更に三本撚り合わせた堅牢な太さであった。両手縄から足縄にむかう両辺には、親指ほどの太さの縄が縦糸の様に幾筋も渡され、その楔が人の手に余るほど大きく変形することを防いでいた。

 この吊り橋を通る度に麻太郎は、かつて足を踏み外し、背中の荷物の半分を下の川に流してしまったことを思い出す。あの時、村に帰った麻太郎を酷く打ち付けた父親の顔は、今も心の隅にこびり付いていた。その時の痛みを、今でもはっきりと自分の身体に蘇らせることが出来る。一歩踏み出す度に揺れる吊り橋が、その痛みを呼び起こした。あの時の理不尽な殴打が今も思い浮かばれて、麻太郎は強く歯を噛みしめた。わざとやったわけでもなく、言いつけを守らなかったわけでもない。それなのに、一方的に麻太郎を打ち据えた父親を、決して許すことが出来なかった。今でも腹を立てているわけではない。ただ、事ある度に、あの忌まわしい記憶が沸々と湧き上がることを押さえられないのであった。縄を握る両手に力が入るのはその怒りの為なのか、或いは落ちまいとする生存本能によるものなのか麻太郎には判らなかったが、そのどちらでも構わないと思っていた。あの時の父親に対する、今となっては慣れ親しんだ怒りや憎しみらと共に、これからもずっと、おそらく一生連れ添って生きてゆかねばならないことを知っていたからだ。


 吊り橋の中程まで来た時、麻太郎は視界の隅に見慣れない特異な色を感じた。真っ白に洗われた石と、幾分緑がかった水の色から浮き出た、赤や紺といった場違いな色だ。そちらに視線を回した麻太郎が見たものは、川沿いの岩に腰かけた娘の姿であった。

 歳は麻太郎と同じ位だろうか。娘が着ている小袖は色褪せてはいるが、赤っぽいあずき色の生地に枯草色の縦縞をあしらえた物で、胸元は紺色の縁取りがなされていた。帯は若草色の布が無造作に巻き付けてある風だ。黄ばんだ前掛けは上まで捲られ、腰かけた腹の辺りに丸められている。その姿は、自然の河原に不釣り合いに突出しているようにも感じられたし、むしろ落ち窪んだ穴の様にも感じられた。娘が腰かけている岩の脇には、赤い鼻緒の草履が並べて置かれていた。裸足の脚は水に浸され、無造作に流れを弄んでいる。着物の裾から延びたその脚は艶めかしく白く、そこから目を離すことが出来なかった。麻太郎はごくりと唾を飲み込んだ。娘は片手を額の辺りにかざし、陽の光を遮る様にして麻太郎の方を見ていた。麻太郎が娘に気付く前から、娘は麻太郎を見ていたようだ。娘はそのままの姿勢で麻太郎を見つめ続けた。その顔は笑っていた。脚はぱしゃぱしゃと水を蹴りながら。麻太郎は無理やり、娘から視線を引き剥がすと、残り半分の吊り橋に集中した。集中する振りをした。その全神経は娘に向けられていたが、吊り橋から落ちまいとする気持ちが邪魔をして、麻太郎は板挟みの様な辛苦に捕らわれていた。かつて荷物を落としてしまった悪夢が蘇り、吊り橋に集中しようと焦れば焦るほど、娘の白い脚が目に浮かび、ことさらにその足元を危うくした。

 対岸まで渡り切った麻太郎は、土手に刻まれた踏み跡を登った。その際、後ろを振り返って娘の姿をもう一度、その柔らかそうな脚をもう一度この目に焼き付けたいと思ったが、どうしてもそれは出来なかった。多分、娘はまだ麻太郎のことを目で追っているのだろうと思えたからだ。あるいは、既に麻太郎に対する興味を失った娘はそっぽを向いているかもしれず、もしそうならその姿を見たくないという気持ちも働いた。背中の荷物を背負い直すと、麻太郎は足元を見ながら、ただ黙々と隣村に向けて歩き続けた。その胸では、きゅっと締め付けられるような不思議な感じが湧き上がっていた。麻太郎はそれが何なのか判らなかった。

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