絶望的大誤算

まゆし

絶望的大誤算

 裁判所からの通知を嘘だろうと呟きながら見てみた。家庭裁判所に来るようにという内容に日時。


 数ヵ月前、俺は実家に帰ってきた。


「嘘つき!」


 彼女は泣いていた。約束を破ったのは俺だ。でも、耐えられなかった。考えていた以上に、結婚というのは面倒でお互い気を遣いあってばかりで窮屈すぎた。だから、その泣き声を背にして俺は実家に逃げた。


 彼女はいつも優しかったし、食事や弁当にも気を配ってくれていて、弁当なんかは母親のものよりも数段綺麗で旨かった。たまにお菓子が添えられていて、メッセージカードには「仕事の合間に食べてね」と書かれてあり、いつも気を遣っていてくれた。

「野木さん!愛妻弁当いいっすねー!」と茶化しに来る同僚がいても弁当を見て「うわ!うまそう……」とクオリティの高さに驚いて黙る。

 いつも満更でもない顔をして、弁当を食べた。


 何も問題はなかった。ただ一方的に俺の愛情が薄れた。何となく、「やっぱり一人が気楽だよな」と思ってしまった。それだけだった。

 彼女は休日、俺がずっと寝ていても、無理に起こさず、外出しようなんてことも言わなかった。嫁姑の仲も良かった。俺の母親は「娘が出来たみたいで嬉しい」と彼女のことをとても気に入っていた。


 でも、言えるもんかよ。自分勝手に離婚を決めて家を飛び出したなんて、誰にも言えない。

 俺はエリートだ。そこら辺の会社員や無職の奴らとは違うんだ。こんなこと、誰にも相談できない。裁判所から呼び出されたなんて。ただ、両親にだけは仕方なく話した。家同士のこともあるから。父親は俺を怒鳴りつけた。母親は泣いていた。「育て方を間違えた」なんて言いながら床に崩れ落ちるように泣いていた。


 友達を含めても十年以上の付き合いだ。明るく笑い、二人でよく夜の海を見に行っていた。その時、決まって俺はコーヒーを買い、彼女にミルクティーを手渡す。隣で笑う彼女はいつも優しい。

 俺が仕事で失敗して落ち込んでいても、下手な言葉はかけずに、いつまでも俺が口を開くのを待っていた。好きな歌を一緒に口ずさんだ。

 俺のことを大切に想ってくれているのを、いつも感じていた。不必要に立ち入らない、彼女の優しさに甘えて、甘え続けた。

 だから、「離婚したい」と言ったとき。きっと、悲しそうに笑って「そっか……わかった、ごめんね」と自分が至らなかったせいにして、素直に応じると思った。


 それは大誤算で「嘘つき」呼ばわりされ、大泣きされて「ずっと一緒にいてくれるって言ったのに!」そう泣きわめいた。

 彼女が結婚するときに望んだのは、そのただ一つだった。プロポーズしたときも「幸せにできる自信はないけど」と言った俺に、「ただずっと傍にいてくれるだけで嬉しいの」なんて、真面目に俺の手を大事そうに自分の両手で包み込んで涙をぽろっと落とした。愛しいと思った。

 婚約指輪も要らない、結婚指輪は彼女の昔の上司に頼んで何割か引いてくれるようにしてくれていた。それでも大手のブランドだ。エリートと言っているが、見栄をはっていただけだった。実際はそんなエリートでもないことに気がついていたんだろう。彼女は細やかなことに気が付くタイプだった。


 愛想だけしか取り柄がないような彼女に、こんな知恵が回るとは思わなかった。黙って引き下がるだろうと思った。このシチュエーションは誰が見ても、彼女を可哀想だと思うだろう。せいぜい可哀想な様子を見て、周囲があの手この手で慰め励ますだろうと考えていた。


 それが、この有り様だ。慰謝料は300万。たった一つの彼女の願いを無下にした俺に、彼女は正面から戦う気なのだ。全く予想していなかった。甘く見すぎた。『愛想しか取り柄がない』ということは、色々な知り合いがいるに違いない。落ち込んだ彼女が涙目で相談すれば、周囲が山程のアドバイスをするだろう。彼女を見下していた俺は、何を理由に見下していたのか。


 彼女を怒らせたことはあったかなかったか。

 浴槽でシャンプーやトリートメントをする癖で、浴槽がヌメついていて「知らないで入ったら気持ちが悪かった」怒られたことはある。俺に注意だけして、毎日彼女は夜に風呂掃除をしていた。


 ある日、夜遅く帰ると手の込んだビーフシチューとサラダや一式キチンとテーブルに用意されていた。温めやすい容器にまとめられた、疲れて帰ってきてもすぐ食べれるようにという気遣い。それに手をつけず、俺は冷凍食品の担々麺を食べていた。理由はない。ただ、担々麺が食べたかったから。

「おかえりー」と寝ぼけ眼をこすり、パジャマ姿で彼女が寝室からでてきたとき、「ただいま」と彼女を見向きもせず答えた。後ろめたさを感じたが、彼女は俺を見て何も言わずテーブルに用意していた俺のための食事を丁寧に小分けして、冷蔵庫に閉まった。そして優しく「今日もお疲れ様ね」そう声をかけて、寝室に戻っていった。


 翌日の夕飯は、また違った食事になっていた。


 結婚式の日は、一段と綺麗だった。可愛らしさを残した大人の女性らしさ。そういえば、衣装を選ぶときも、彼女は俺を優先してくれていた。俺はさっさと自分に似合う衣装を決めて、そのあとの彼女の衣装選びにすら付き合わなかった。それなのに彼女は文句一つ言わなかった。「当日、楽しみにしていてね!」と言っただけだった。


 思い起こせば、何かにつけて俺は薄情だった。

 彼女の誕生日ですら、アレは評価が悪いだの、実家に余ってるだの、欲しいと口にするもの全てを否定した。彼女が諦め半分でねだったものは、なんだったろうか……そんなことも思い出せない。たった一年の結婚生活だったのにだ。


 彼女はそんな俺に対してどう思っていたのだろう。優しい笑顔の裏に、何かあったのだろうか。離れてしまった今となっては、意見を聞くことすらできない。いや、聞こうと思えば聞けるが、泣き声は聞きたくなかった。


 だが、まさか裁判を起こすとは……


 思い出の中では、何年も一緒にいた彼女はいつも優しく笑っている。結婚しなかったら、この先もほどよい距離で一緒にいることができたのだろうか。俺たちは、『ずっと一緒にいるための方法』の選択を間違えたのだろうか。


 指定された日時に、家庭裁判所へ向かう。待合室で呼ばれるのを待ち、程なく呼ばれて指定された部屋に入る。

 もうお手上げだ。逃げ道はない。だから俺を見るな。俺のくだらない敵前逃亡をしないと決めたプライドを守る為だけに、ここに来た。


 今、少し離れたテーブルにうつむき加減に、暗く肩を落として座っている彼女は、上目使いに俺に何かを伝えようと見ている。その口許は少しだけ歪んでいる。


 俺を見ている彼女は今だかつて見たことない、俺にしか見えない角度で……明らかに笑っている。唇が三日月のように弧を描いている。俺に今まで傷つけられた行為を、何一つ忘れてはいないのだ。


「もう二度と許さない」と、その表情が物語る。

 思い出の優しい笑顔が、上書きされていく。あの頃の彼女はもういなかった。もう『ずっと一緒にいるための選択』の選択肢は消滅した。間違いなく俺のせいだ。


 ──敗北の屈辱を味わいな。


 そう聞こえた気がした。

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絶望的大誤算 まゆし @mayu75

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