二十六話・二十七話
二十六
私はそのまま地元の公立中学に入学し、野球部に入部した。
バスケ部の見学などもしたが、六年生の時、一緒にバスケ俱楽部に入っていた野球俱楽部の友人たちが頑固ジィはもういないからまた野球がしたいと言い出したのがきっかけだ。野球部は所謂弱小チームだった。先輩たちも下手くそだったし、監督も生徒から「マリオ」と呼ばれていた。マリオは口髭ともじゃもじゃの髪が特徴的だった。マリオは野球経験者ではなかった。よって練習にも殆ど顔も出さなかったので、一人だけ情熱的な主将が率先して部を率いていた。
或日の練習のこと。先輩たちがキャッチボールをするので、我々下級生は、その際のボール拾いというこで、グローブを持って先輩たちの後方でただ立っていた。この光景には流石に私も驚愕した。少なからず六年あまり野球をしてきた私にとって人のキャッチボールをただ眺めるだけの練習がこの世に存在することに驚いた。そして三年生は、有り得ないほどに下手くそだった。度々、ボールが逸れて我々の所にやってくる。なるほど。これならボール拾いも案外いるのかもしれまい。ボテボテのゴロを取る練習。
まともにキャッチボールが出来ない先輩たちにしびれを切らせた友人が、飛んできたボールを先輩に向かって全力で投げ返した。先輩は驚いてそのボールから逃げた。
そして友人は我々下級生の言葉を代弁するかのように叫んだ。
「お前らどんだけノーコンやねん! 下手くそ! ぼけ!」
友人に便乗した下級生たちは、ヤジを飛ばした。激昂した三年生諸君は、怒りを露にして下級生に近づき「お前ら生意気なんじゃ!」と唾を飛ばした。
マリオが介入して、その場は一時収まり、ついで新たに一人の先生を紹介した。坊主頭の三十代半ばで、スポーツウェアやサングラスが似合い、如何にも野球してきましたというような人だった。
「これからはこの古谷先生が野球部の顧問を務めます。君たちチャンという事聞くんですよ」
「古谷です。宜しくお願い致します」
「気を付けえぇ! 礼ぇ!」
主将が濁声で叫び、皆が『お願い、しまああす!』と力一杯叫んだ。
気付けばマリオは風のように消えて行った。よっぽどこの野球部の顧問が嫌だったと見える。
古谷先生が就任して以来、部には劇的な変化が起きた。練習時間が増え、全てがそれっぽくなって、朝練も始まり、練習試合も増えた。マリオの時の年功序列型は一切なりを潜め、下級生であっても実力があればレギュラーに選ばれるような体制に切り替わった。
古谷先生は、常に総体優勝を見ていた。もちろん、三年生の中には反発する輩がいて、そういう輩は次第に来なくなった。
二十七
専門学校を卒業し、美容室で働き始めた私はあまりの長時間労働に耐えられなくなって、またもや三ヶ月で仕事を辞めた。そんな或日の事である。
この時の私は携帯にある全ての連絡先を消去して、家に引きこもっていた。毎日特に何をするでもなく、週に二三回ほど夜中になると散歩をして、ゲームをしたり、時々タウンワークに目を通してみるも、決して電話を掛けることはしなかった。
そんなどうしようもない日の一日に母親が私を呼んだ。
「ケンジ。リーダー君来てるけど」
私は驚いた。私が美容室に勤め忙しくなるにつれて、皆とは疎遠になっていたのだ。貴重な週に一度の休みも、平日で日程もあわず、私は泥のように眠ることしかしなかった。それに休みも毎週ある訳ではなく別の店舗のヘルプに呼ばれることも多々あった。それも勉強だとか何とか言って、確かに俺もそうだった、とかよく分からないことを言う上司もいた。
「すぐ行くって言って」
「分かった」
私はどうしてリーダーが今更わざわざうちに来たのか、疑問に思いながらも、久しぶりに会えることに少し心が高揚してくるのを感じ、外に出た。
夕方だった。
「さしぶりやなケンジ。ここで話すのも何やし久々散歩でもしましょか」
「ええな」
我々は懐かしい神陵台の坂を下りながら、朝霧駅方面へ向かいながら歩いた。今までどうしていたのか。なんで突然連絡先を消したのか、軽く説明した。
「まあ気持ちは分らんことないけどなあ。せめて俺の連絡先くらいは残しとけよ。連絡しよかな思たら、あれ? ケンジおらんくなってるってなって焦ったわ。皆に聞いても誰も知らんし、最近会ってない言うしな」
リーダーはよく喋った。自分の仕事のことや、プライベートのことも包み隠さず。昔のように。そうして、気付けば大蔵海岸についていて二人で缶コーヒー片手に、その辺の石段に座って一服することにした。
暗くなった海は、明石海峡大橋のネオンに照らされていた。少しリーダーが間をおいて、あのさ……と言った。
「もしかしてやけど、ケンジが引きこもって連絡先も消したりしたほんまの理由って、夏羽が関係してるん?」
「は? なんで」
「まだケンジが専門学校通てた時さ、一回こっち帰ってきたやん。そんとき夏羽と二人で遊んだ言うてたやんか、だからもしかして……」
「ああ、あったな、そんなこと。まあ実際には二人きりじゃくて、夏羽の子供もおってんけどな」
「……そうなんや」
「けど別にそれ一回きりやで。もしかして付き合ってるとか思ってたん?」
「……」
リーダーは吸い終えた煙草を地面に擦りつけて、飲み干した缶コーヒーの中に入れた。
「……もしかしてケンジ、なんも知らん?」
「……ん? 何が?」
私はリーダーの声のトーンが異様に低くなっていることに気づき、ますます意味が分からなくなった。
「夏羽って夜の仕事してた時に、子供出来て男に逃げられたやんか」
「え、おん。せやな」
そんなことは地元の奴なら誰でも知っている。もっと詳細に言うと夏羽は男に妊娠したことを告げると「お前となんか最初から付き合ってるつもりなんかなかったわ」と言われ、更に相手は既婚者で、子供もいた。最終的に男は夏羽の前から姿を消したという。よくある事例の一つだった。夏羽はそれでも赤ちゃんを中絶せずに産むことを決めた。
当時はそんな夏羽を陰で皆色々好き勝手に言った。馬鹿な女だとか、すぐに股ばっかり開くからそうなるとか、子供が可哀想だとか。
それを今更わざわざ口に出すほどの新鮮なネタでもなかった。
「夏羽、四ヶ月前に再婚してん」
「え」
初耳だった。
「そう、なんや……全然、知らんかった」
何故か分からないが、心臓が少し跳ねた気がした。
「俺らの四つ上らしい。でもう既に妊娠してたらしいねん」
「え……」
私が夏羽と会ったのは、ちょうど半年前くらいだ。もしかしたらあの時、既にその男の影があってもおかしくはない。いやあったのだろう。でももう、今はどうでもいい。とにかく私はリーダーに動揺を悟られないようにと、もう一本煙草に火をつけて、気持ちよく煙を吐いた。
「良かったあ。ほな夏羽もようやく幸せになれるんやな。女手一つは大変やからな」
私は本心からそう言ったはずだった。だがリーダーはいつものように、同意を示さなかった。私と同じように黙って煙草に火をつけた。不気味なくらい黙ってリーダーは三口くらい煙草を吸って、こう言った。
「夏羽、一週間前にお腹の子と一緒に自殺してんねん。自分の子供に薬飲ませて殺してからな」
「え……なんで」
長い。長い。沈黙が私の頭を凍らせた。
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