十六話・十六.五話

 十六


 おめでたいことに私は小学一年生になって、舞子の公立小学校に入学した。父親の勧めで野球の俱楽部チームに入った。特に野球が好きだとか言う訳ではないのだが、「ケンジ野球やってみるか」と言われ「うん」と返事した次第にこの様な環境変化が起きた。毎週土日は全て野球に費やし、平日は学業をこなし、放課後は学習塾を週二回と習字教室とスイミングスクールに週一回通った。どれもそれなりにそれなりの成果をあげた。どれが特別楽しくて得意であって、どれが特別辛くて苦手だったとかはなかった。ただそういう風にそういう場所に引き込まれただけのことであった。そんな私を両親は心から愛した。……愛した。

 そんな或日両親が喧嘩をした。お酒を飲んで酔っぱらった父親が母親と言い合いになることは稀にあったのだが、今回はより激しくなって母親が泣いていた。

 私は怖くて和室にある床に包まっていた。父親が怒鳴るように私を呼んだ。

『ケンジ!』

 私は一度目を無視した。

『ケンジ! 起きとるんやろ、ちょっとこっち来い!』

 私は観念して、のそのそと両親がいるリビングに行った。

「この鍋持っていけ」

 父親は私に土鍋を指して言った。

「あんたアホちゃうか! こんな重いもん子供が持てる訳ないやろ! ケンジ! 持ったらあかんで、熱くて火傷するから!」

「男やったら鍋くらい持たんかいケンジ!」

 父親は酒をぐびっと煽り、怒り、吠えた。私はびっくりして父親を見た。顔が真っ赤に染まっていて目は充血していた。

「持ったらアカンでケンジ!」

 次に私は母親を見た。真っ赤な顔を震わせて泣いていた。目は充血していた。

 私は恐怖に震えながら土鍋に近づき、触れた。

「アッ!」

 予想以上の熱さに声が漏れた。私はアホみたいに泣いた。

「何泣いとるんじゃぼけ!」

 そんな私を見て父親が怒り吠えた。

「ケンジ行くで! もうこんな家出ていこ!」

 母親は私を連れて自室に行き、自分の着替えと私の着替えを適当に鞄に詰めた。私はランドセルを背負わされた。

「おうおう、早よ出ていけ!」

 リビングの方で何かが割れたり、壁に鈍い音が鳴ったり、父親が意味の分からない言葉遣いで吠えたりするのが聞こえた。

 最後に玄関から真っ暗になっているリビングを覗いた。父親が暴れたせいか物や硝子の破片が果てしなく散乱してあった。父親はソファーで眠っていた。ライトアップされた明石海峡大橋の明かりが部屋を虚しく光らせていた。


 十六.五


 夜中の二時。私は母親と母親の数少ない友人と三人でガストにいた。母親の友人はMといった。Mは母親から急遽呼び出され、事情を一から聞いていた。私はメロンソーダを飲んでいた。眠たくてうとうとしていた頃、Mとの話が終わったのか、私は母親に連れられて舞子坂にある母親側の両親のマンションに行くことになった。

 母親は両親のことを「パパちゃん」と「ママちゃん」と呼んでいた。パパちゃんとママちゃんは私に優しくしてくれた。ママちゃんはスナックで働いていて、肥満で、始終煙草を吸っていて香水臭かった。パパちゃんは建築会社の社長を引退して余生を過ごしていた。穏やかな表情をした穏やかな人だった。

 マンションは質素な感じだった。これは後になって知ったのだが、パパちゃんが社長時代に稼いだお金はママちゃんが皆ギャンブルで溶かしていたらしく、更に闇金にも手を出すほど癖が悪く最近まで借金まみれだったという。それを東京にいる母親の弟が大手銀行に務め、全部完済したらしかった。

 私は一日だけ学校を休み、次の日から普通に学校に行った。母親も同じようにパートに行った。新しい生活が始まって四日経った。ママちゃんはいつも通りパチンコ屋さんに通い、私は学校から帰ってきてパパちゃんとお菓子を食べながらアニメを見ていた頃。

 母親が血相を変えて家に帰って来た。

「ケンジ! 病院行くで!」

 おばあちゃんが死んだ。脳梗塞らしかった。私が病院に着いた時にはまだおばあちゃんの息があった。私が母親に勧められておばあちゃんの手を握った。ぬるかった。

「おばあちゃん」と私が言ったらおばあちゃんの心臓が、止まった。心電図の音がピィーと鳴って私の耳で暫く鳴り続けていた。久しぶりに見た父親が目に涙を溜めていた。

 おばあちゃんは最後まで聖母マリアのような顔をしていた。

 通夜から葬式まで私は一度も泣かなかった。本当は泣きそうになったけど何故か我慢した。いつもよく泣いていたのに意図的に涙をこらえたのは、この時が初めてだった。

 棺桶に納められたおばあちゃんの顔は酷く怖かった。なんでまだ人間の形をした生き物が、物のように花を添えられたりして棺桶に納められているのかが理解出来なかった。

 火葬の時は、悪い夢のようだった。人が人を燃やすということを知った。おばあちゃんの死は、私に人はいつか死ぬことを教えてくれた。

 周囲が黒い服に身を包んで、自分もそのうちの一人であることが途端に嫌になった。自分だけでもいつもの私服を着ておばあちゃんの前にいたかった。

 周囲のあまり知らない人や知っている人が悲しそうにしているのが嫌だった。坊主頭のお坊さんがぶつぶつとお経を唱えるのが嫌だった。お焼香の匂いが嫌だった。葬儀場の雰囲気が嫌だった。こうしていつか自分も死ねばおばあちゃんのように、生きている人たちに見られながら燃やされるのだと思うと、嫌悪感がした。

 おばあちゃんが死んで、父親と母親は自然に仲直りをした。

 私は嬉しかったけど、ふとあの夜を思い出して何か引っ掛かりみたいなのを感じて、忘れた。

 一か月後には、おばあちゃんの後を追いかけるようにサクラも死んだ。おばあちゃんの仏壇には、サクラの写真と遺灰が並んでいた。

 頑固なおじいちゃんは魂が抜けたように、灘にある老人ホームへと住む場所を変えた。

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