九話・十話



 九


 私が三歳のちびだった頃。母親は私を連れてスーパー玉出へと出掛けた。私は当時お気に入りだった子供用の玩具車を足でてくてくと動かしていた。私はこの玩具車をトーマスと呼んでいた。

 買い物を終えた母親は、同い年くらいのちびを持つ婦人たち四人と偶然にも出会い、洗濯物を干し終えて一休憩する主婦のような自然さで井戸端会議に興じはじめた。

 婦人たちのちびたちも同様、その辺に放り出された。

 しばらくの間、私はちびたちと遊んだりしていたようだが、飽きた。婦人たちの井戸端会議は白熱し、私がいないことなど気付きもしなかった。

 私はトーマスのハンドルの真ん中にあるピコピコと鳴る赤いボタンを押してエンジンをかけ「しゅぽ、しゅぽぉぉおお」と叫びながら道路を疾走した。

 スーパー玉出からひたすら真っ直ぐ向かって右手の所に私の住む団地がある。私はこの時のことを書くまで忘れていたが、今は不思議と微かに覚えている。とにかく楽しかったのだ。私は普段から二十四時間体制で監視されており、日々ストレスを感じていたのかもしれない。

 てくてく「しゅぽおぉぉおおお」

 顔面に吹き付ける風が気持ち良かった。

 てくてく「しゅぽおぉおおおお」

 母親譲りの薄茶色の髪がサラサラと反り返っていた。

 てくてく「しゅ、しゅぽぉおおお」

 しゅぽおおぉおおと叫ぶとより楽しくなった。空を見上げると通天閣が天に突き刺さっていた。

 トーマスは私の親友だった。トーマスも私が跨り、進路を決めて旅をすることを喜んでくれていた。そんな時、トラ柄のゆるゆるの服を着たオバチャンが私とトーマスを呼び止めた。

「おーなんやなんや。おかーちゃんは。一人か」

「……」

 オバチャンの顔は真っ白な白粉が塗ってあって、唇に分厚い赤がのっていた。鼻の右端にある大きめのほくろが目立って見えた。頭は茶髪のクルクル巻きだった。私は何故か泣きそうになった。

「うん? あっれえ、ちょい待ちやあ……なんか見たことあるなあ思うたら、北側さんちの坊ちゃんやないの」

「……」

「おかーちゃんは」

「……」

「どこいったん」

「……家の公園」

 私は勇気を振り絞って噓を言ってみた。私が記憶している限り、この時ついた「噓」が人生で初めて意識的に使った行いである。

「ほなすぐ近くやさかい、お姉さんがそこまで送って行ったるわ」

「……」

 私は強く首を横に振った。

「ええからついてきぃ」

 オバチャンは勝手に歩を進めて、私が頑なにそこを動かない事に気が付いた。

「分かった分かった。ほんま頑固な子やで。一人で大丈夫か」

 私は強く首を縦に振った。そうして私はまたてくてくと勝手に走り出した。

「ちょい待ちぃ」

 ビクッとして振り返ると、オバチャンが近くまで寄ってきて、ビニール製の袋に手を突っ込んで何やらがしゃがしゃとした後、手に何かを握って私の前に差し出してきた。

「ほら、これ持っていき。あめちゃん」

 私は安心して飴を受け取った。飴は黒い包装に包まれていた。

「ありがとう」

「ええねんええねん。お家まですぐそこやから頑張りなぁ」

 私は走り出した。

 トーマスと私はこの障害を乗り越えて、再びの自由を手に入れた。もはや我々を止めることが出来る者は、誰一人いなかった。

 私は一足先に団地に着いた。暇だったので団地前の駐車場でトーマスと共に周回していたらお隣に住んでいるお爺ぃに呼び止められた。私は怒り狂うように泣いた。何を言われても答えることが出来ず、何度も何度もハンドルのエンジンを叩いた。

「お母さんはどこや」

 ピコピコピコピコピコピコピコピコ

「自分、北側さんちのお子さんやろ」

 ピコピコピコピコピコピコピコピコ

「それともお父さんと一緒やったんか?」

 ピコピコピコピコピコピコピコピコ

「よしゃ、もう大丈夫や。ほら、泣き止みなさい」

 ピコピコピコピコピコピコピコピコ

「いないいないぃぃばあっ!」

 …………………………ピコピコピコピコピコピコッ!

 怖かった。人という生物の鼻の穴から、ああも無数の白い毛が、密林のように暴れ狂って幾重にも伸びてきているのが。私はくしゃくしゃになったお爺ぃの顔よりその鼻の中にある密林が怖くて怖くて仕方なかったのだ。人生であのような密林をまだ見たことがなかったせいか、後に密林が伸びてきて私の全身を縛り上げて金縛りにあう夢を何度も見た。

 三十分後、母親が青ざめた様に私に抱きついた。母親は何度もお爺ぃに謝り、私とトーマスは家に連行された。私は金輪際、あの恐ろしい密林の恐怖を味わいたくないが為にトーマスと二人で旅をすることをやめた。


 十


「なんでA子と別れたんケンジ」

 駐車場にて改造された原付に跨っていたカケルは、眉をひそめながら白い煙を真っ直ぐに吹いた。

「別に。特に理由なんかないけど」

 私は下唇を少し前に出して、空に向かって白い煙を放出させた。

「なんやそれ。せやけど勿体ないなあ。A子みたいな可愛い子滅多におらんのに」

「ふふっ」

 私はおかしくなって煙と共に吹いた。

「いやいやマジで。A子絶対他の奴とすぐ付き合うで」

 それでいい。私はまたこの様なことを思った。

「別にええんちゃう。俺と付き合うより百倍は幸せになれるやろうから」

 カケルは嬉しそうに、旨そうに、マイルドセブンの六ミリを吸った。カケルはいつも八ミリを愛用しているので、六ミリの時は大抵母親の煙草である。

「まぁケンジらしいちゃケンジらしいな」

 一体この時のカケルは、私をどういう風に見ていたのだろうか。私はそういう肝心なことを知らないまま生きてしまっている自分が後に酷く、厭になる。

「ほな、別れた記念にドライブでも行こか」

「なんやねん別れた記念って」

 穴の空いたマフラーは、バリバリと世界を割って、カケルとその後ろに跨る私を少しだけ愉快な気持ちにさせてくれた。

 その三か月後にカケルはA子と付き合っていた。私はA子と肉体関係を一度たりとも結んでいなかった事をカケルには話していない。

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