第77話:意思を尊ぶ女

 ゲノシスはイブレスの背に負われたまま、少しずつ下りてくる。


「行くぜ相棒!」

「キュエッ!」


 その間にも、岩盤の崩壊が進む。浮遊島を巨人の帽子にするのかというほど、下方と横へ空間が拡がっていく。

 ゲノシスを止めねばならない。この島の誰の為でもなく、サリハとの約束を守る為に。

 紅蓮の槍を平らに構え、斜め下から翔け上がる。


「公爵!」


 コーダミトラを売り渡した男は、イブレスの脇に居た。足場なども見えない宙に、なぜかへたり込めて・・・・・・いる。

 ゲノシスを切ることは、イブレスを切るのとほぼ同義だ。そうと察したらしい尊大な男は、巫女の両脚にしがみつく。


「遠慮するとでも思ったかよ!」


 公爵と巫女を生かしておくことは諦めた。既に判断を下したザハークに迷いはない。

 勢いまま引き寄せた槍先を、前方へ振り抜く。実体のない魔力の刃が、ゲノシスを含む三人を真っ二つに切り裂く――はずだった。


「チッ、これでも駄目なのか!」


 天頂方向へ行き過ぎ、岩盤に衝突する寸前で方向を変える。

 狙いを外しはしなかった。ザハークの眼に見えぬだけで、ゲノシスを中心とした障壁があるらしい。


「まあ女神さまだからな、足りねえか。だが俺に負けはねえ」

「キュッ」

「そうだダージ。全開だマフトゥハート!」


 ダージの柔らかな羽毛が、自身の魔力にしなやかさを失う。靡いた格好のまま、針金のように硬く。

 毛先と毛先を、溢れる魔力が迸る。雷を落とす前の黒雲にも似て。


「今度こそだ」


 高度をゲノシスに合わせ、上段に構える。槍に集まる魔力が濃さを増し、大樹のごとく太さを増す。


「覚悟しろよ!」


 それはもちろん、イブレスと公爵への言葉だ。聞こえているかは別にして。

 だというのに、意外なところから返事があった。サリハの頷きが、背に伝わる。敬愛する巫女を失うことの、覚悟が出来たと。


「ダージ、突撃アタスリヤ!」


 しかし迷わない。この土壇場で判断を変えては、サリハに危険が及ぶ。もしも彼女が「やめて」と言ったとして、もう止めることはない。


錐揉みダーレン!」


 むしろ思いつく最大の威力を槍に与える。ちくちくと痛み続けるより、一瞬の激痛のほうが堪えるに易い。

 手綱を緩め、前傾姿勢を取る。ダージにも最速を求めた。


「お待ちなさい」


 誰かが言った。低い天井のほうからだった気がする。


 ――待てと言われて待つ馬鹿が居るかよ。

 などと思う間に、ダージの進む速度が落ちていく。


「おいダージ、どうした!」

「キュキュッ?」


 遂に止まった。ぴたりと、一リミも動かない。相棒の声も戸惑うもので、ダージの意思によらないらしい。

 輝く赤い魔力も、しおしおと引いていく。不審に槍を振るおうとして気づいた。身体が動かない。


「勇敢なる蛇人よ。あなたの覚悟は分かります。だからこそ、どうか私に預けてください。踊り手の声は、私に届いたのだから」


 視線を動かすことは出来た。イブレスと公爵も動かない。下降もしていない。

 それどころか、落ちていく岩さえだ。大きなものから砂粒まで、動かず宙へ留まっている。


「まさか……」

「私はミトラ。この地に光をもたらす女神」


 振り返りたかった。だがどんなに、全力を振り絞っても、腰が動かない。首も回らない。

 気づいたのだ。声は上からでない、背中から聞こえてくると。


「今さら何しに出てきやがった! あんたの足元はガタガタだぜ。何百年もあんたらを信じてきた奴らなのによ!」

「言いたいことは分かります。けれども良いのですか? 私たちが理想とするように、人々を動かしても。豊かな生を与えたとして、人間は幸福なのですか?」


 土地の者たちがどう感じるのか、知ったことではない。が、ザハーク自身がどうかと言うなら、答えは即座に出る。


「分かりきったことを聞くんじゃねえ、おととい来やがれ。俺はあんたを呼んだ覚えはねえんだ」

「フッ、フフフ」


 遠慮がちに、ミトラは笑う。それもどこか、誰かに似ていた。


「何がおかしい」

「いいえ、粗野だけれど温かいと思っただけです。だからこの踊り手は、命をも賭けられたと納得しました」

「やかましい。用がないなら、とっとと消えろ。サリハに何かしやがったら、あんたの国へ攻め込むからな」


 どう受け取ったのか、ミトラは黙った。幾ばくかの沈黙があって、流れる水の音だけが耳に届く。


「――用はありますとも。踊り手の願った通り、ゲノシスを迎えに来ました。私の大切な、愛する姉を」

「へえ、じゃあ早くそうしてくれ。あんたらの姉妹喧嘩のせいで、この国は歪んじまった」


 光の泉。今や滝だが、輝く水がまた明るさを増す。


「分かりました。姉もそろそろ自分を許してくれるでしょう。私は最初から、姉を咎めてなどいないのです」

「だから知らねえってんだよ」

「まあ。この踊り手には優しいのに、冷たいものですね」


 もう一度「やかましい」と言いたかったが、向きになるのを避けた。

 滝の輝きが増していく。もうイブレスと公爵の姿は見えない。浮遊島の底も、遥か下の地面も。


「あなたには言いわけとしか聞こえないでしょうが、踊り手に伝えてください」

「何だよ」

「貴女のおかげで物質世界へ干渉出来ました、ありがとうと。それから、長らく迷惑をかけましたと」


 ――本当に言いわけじゃねえか。

 毒づこうにも、視界が真っ白で何も見えなくなった。ダージに乗ったままかさえ、感覚も危うい。


「蛇人よ、ありがとう」


 最後にそう聞こえて、光が縮む。元へ戻ったとき、浮遊島の崩壊は止まっていた。

 ゲノシスの姿はなく、イブレスと公爵は宙へそのままだ。


「あのクソ女神、やっぱりろくでもねえ!」


 降ってくる二人を受け止める為、ザハークはダージを奔らせる。

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