第76話:嘆きと怒り
「オおォおオオぉォ……」
押し潰されたような、哀しい声が響き始める。ゲノシスは泣いているのか、それとも何か届かぬ願いでも繰り返すのか。
共鳴するかのごとく石床が剥げ、土と岩石が捲れ上がる。
「どうにかする方法が、あるかもしれません」
「どうするってんだよ」
抱きしめた腕を、黒猫の手がぎゅっと引き寄せる。彼女の性格を思えば、ろくでもない予感が腕の力を増してしまう。
「私も女神を呼びます。光の炎はなくても、目の前に光の泉があるのですから。私もミトラの力を得れば、どうにかなるはずです」
目には目を、女神には女神を。その単純な図式は分かるが、賛成出来ない。
ゲノシスを抑え込んだとして、今度はミトラが暴走せぬとは限らない。最悪は、暴走する女神を増やしただけとなりかねない。
「駄目だ」
「なぜです。それ以外に方法はありません。私はいいとしても、この島に住む多くの人を見殺しにするんですか」
それこそ「なぜ」だ。どうして最初に、自身のことはいいと置き去りにするのか。サリハとイブレスと二人ともが居なくなれば、村の住人たちは再起不能となる。
「優れた賞金稼ぎってのはな、自分に何が出来るか知ってるもんだ。わけの分かんねえ中でも、目的を見失わなきゃどうにかなる」
「街の人たちを守る契約は、誰ともしていないと?」
「そういうこった」
ゲノシスの叫びが、少しずつ音量を増す。床が抜けていくのは、もはや絶叫のせいにさえ思える。
そんな中をイブレスの身体と公爵だけは、宙へ浮いて石塊を寄せつけない。
「サリハに怪我やら死んだりされちゃ、俺が困るんだよ」
「……私が?」
ザハークと比せば子どものような体躯を抱えて、表情は見えなかった。けれども数拍、息を止めて驚いたのは分かる。
「俺はサリハを助ける。約束しただろ?」
なぜか、返事はなかった。肯定の印に、頷きがあっただけだ。
「オオオォォォォ!」
嵐の中の風鳴りが、人間の嘆く声に聞こえることがある。ゲノシスの声は、それとそっくりだった。量の膨大さは、嵐を十も重ねたようだが。
足元の亀裂が、いよいよ踏み場を失わせた。短刀を捨ててサリハを抱え上げ、まだ形を残す岩盤へ飛び移る。
しかしそこもすぐに砕けていく。部屋とも呼べなくなったこの空間へ留まるのは、限界だった。
「仕方ねえ、一旦退く!」
出口へ至る足場を、視界の端に残し続けていた。助走なしで跳べる距離、コースは、まだ三つ残る。
だが。
「チッ!」
「岩が――」
跳ぶ寸前、どの足場もが一挙に崩れた。岩同士が揉み合い、弾け、下方へと呑み込まれていく。流砂ならぬ流岩といった風の、死の落とし穴へと。
「あんな中へ落ちたら、磨り潰されちまう」
ごくりと、サリハの唾を飲み込むのが伝わった。怯えて震えるのを必死に堪え、手足を強張らせているのも。
――相棒を呼べば。いやいくらなんでも、こいつは無傷じゃ済まねえ。
竜とて生き物だ。ましてやダージは、まだまだ幼い。自然の法則や女神の横暴に抗する力はない。
「オオオオオオオ!」
「ミトラ、初めて貴女に話しかけます」
まだ激しさを増すのか。毒づきたくなるほど、ゲノシスは高く叫んだ。
その中をサリハの声が耳に届く。抱え上げた耳許で、囁くほどの小さなものだが。
「おい、サリハ! 呼ぶんじゃねえ!」
「私はサリハ。巫女の踊り手。貴女のお母さまの跡を継ぐ者」
「聞こえてんだろうが! サリハ! ふざけんじゃねえ!」
揺さぶってでも止めたかった。しかしまともに立っていられぬ今、ザハークにも叶わぬ芸当だ。
「優しい貴女の姉が、行き先を見失っています。どうか話してあげてください。手を取り合う喜びを、思い出させてください」
「クソ、もう足場がねえんだよ!」
浮遊島の底が抜けた。光の泉は流れる姿をすっかりと顕にし、その周囲数メルテ分ほどが暗黒の穴となった。
落ちる。ザハークに羽はない。先に落ちた岩塊を追うように、宙へ留まるイブレスと公爵を見上げて。
光の届かぬ奈落へと落ちていく。
「及ばずながら、私を捧げます。どうかこの身一つで、この土地をお守りください。この地に在る人々をお救いください!」
ゲノシスの叫びが遠ざかり、サリハの声が胸を突き刺す。
「そんなこと、俺が許さねえ!」
誰に向けてか、ザハークは怒った。これ以上になく、腹が立った。
だが落下を止めるのは不可能だ。数百メルテの上空から叩きつけられれば、サリハを守るのも叶わない。
「キュエエエエッ!」
高らかに、答える声が轟いた。上昇する滝から、ザハークとほぼ同じ高さに飛び出したのは白い羽毛を纏う竜。
あれほど美しい姿を見紛うはずもない、愛すべき相棒が翔ける。
「ダージ! お前、上に行けと言ったろうが!」
「ギュエッ」
何だ不満なのか。とでも言いたげに、ダージは唸る。落ちるザハークとサリハを咥えたところでだ。
ひょいと長い首が動いて、放り投げられた。大道芸よろしく、ちょうど鞍の辺りへ落ちる。
「泉の中で待っててくれたんだな。さすが頼れる相棒だぜ」
先にサリハを座らせ、ザハークも騎乗姿勢を整える。ついでに撫でてやると、「キュウッ」と甘えた声があった。
光の泉は、ゲノシスの神力を受け付けなかったのだろう。
「ザハーク、すみません。私ではミトラは答えてくれないようです……」
「謝るのは俺のほうだ。サリハの願いは、俺がどうにかしてやる」
――手段は選べねえがな。
愛用の槍を取り、構える。
公爵は生け捕りにし、イブレスも無傷で戻してやりたかった。けれどももう、諦めざるを得まい。
「
ダージの魔力が全身を覆っていく。いつになく濃い赤を纏って、ザハークは槍先を突きつけた。
「終わらせてやるぜ女神さま」
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