第75話:自由を求める女

「サリハ。前に貴女の声を聞いたのは、いつだったかしら。自分が何をするべきか、いつも問うていたわね。誰かにしてあげたいことを、いつも唱えていたわね」


 イブレスの穏やかな声。眼を閉じたせいか、顔面に表情は失われた。


「貴女自身がしたいことはないのか、聞いたことがあるわ。まだ巫女や踊り手を継ぐ前よ」

「ええ、覚えています。踊り手になれば、村のみんなの為になる。早くそうなりたいと答えました」

「そうね。義務でも役目でもなく、心からそう思っていたのよね。そんな貴女だから、私は――」


 次の言葉を吐く為に、すうっと息が吸われる。どんな評価を下されるのか、サリハも唾を飲んで待つ。

 けれども叶わない。欲しい物は奪い取る、飛盗たちが襲いかかった。


「捕まえたぜ旦那!」


 セルギンがイブレスを。弟分の二人が公爵を。背中の側から、羽交いに取り押さえる。

 巫女も宰相も、石床に胸を打ち付けた。「ぐふっ」と上がったのは、男の声だけ。女は顔が床へ着くのも厭わず、ぶつぶつと何ごとか呟いた。


「捕まえたことになんのか――?」


 サリハとの対話が妨害されたのは、よろしくない。しかしこうなった以上は、次の行動を考えるべきだ。

 腰に結わえていたロープを投げ、拘束するよう促す。イブレスの尋常でない力を案じながら。


「イブレスさま。どうかそのまま、お静かに」


 沈痛な面持ちながら、サリハも乱暴を咎めない。このまま抵抗なく居てくれれば、また話す時間は作れると考えたのだろう。

 しかし公爵は黙らなかった。咳き込むのも収まらぬまま、引き攣らせた頬で喚く。


「貴様ら離せ、離さんか!」

「そう言われて離す奴が居るのかい?」


 セルギンの弟分が、小馬鹿に笑う。一人でも十分なところを、二人がかりだ。抗う力も弱々しく、侮っているようだ。


「そうではない。すぐにイブレス殿を離さねば、この島ごと滅ぶぞ!」

「島ごと? 馬鹿なことを言うんじゃねえよ」


 どうにか逃れようと、でまかせを言っている。弟分たちがそう受け取るのも、無理はない。

 だが公爵は鬼気迫っていた。証拠にと言うべきか、弟分でなくセルギンに眼を向けている。


「あ、兄貴?」

「あたしに聞かれてもね……」


 不安に駆られた様子で、セルギンに判断が求められる。が、答えられるはずもない。ザハークが聞かれたとして「俺が知るか」と答えたろう。


「イブレス殿は言った。女神の力を借りるのも途中まで。一線を越えれば、戻らなくなる。仮初めでも肉体を得て、直接に行使する女神の力は強すぎるとな」

「あんた、神を信じないんじゃ?」


 威圧的なのは変わらずとも、公爵は必死に訴える。セルギンが聞く耳を持ったのも無理からぬ。


「ああ、信じない。しかし現実に起こるこの地響きを無視するほど、意固地でもない!」


 根拠など何でもいい。イブレスの言った通りの現象が起きている。公爵の言い分に、疑うべき要素はなかった。

 先に起きた、大きな揺れとは違う。ごく、小刻みに。石壁や天井から、埃を落とす程度。けれども間違いなく、この後に何かが起きると予見させる揺れがやまない。

 遂に判断を諦めたセルギンは、ザハークに助けを求める。


「旦那、逃がしてやりますかい?」

「それがいいらしい。けど、遅かったみたいだぜ」


 巫女の背を踏みつける格好で、女が立っている。寸前まで沸き立っていた煙と同じに、闇の色をした。

 背格好はイブレスを形どったようだが、顔が違う。優しさや朗らかさなど欠片も感じさせない、憎しみだけを滾らせた表情。

 整った目鼻立ちも手伝って、氷の彫像に思える。


「え?」


 セルギンはちょうど、女の股から顔を覗かせた格好だ。だから女が後ろ襟を掴むまで、気づけなかった。

 闇色の女は、布クズでも放るようにセルギンを壁へ投げつける。


「ぐえっ……!」

「兄貴!」


 弟分たちが駆け寄る。硬い床にずり落ちてすぐ、吐瀉物をぶち撒けたからだ。


「お前ら、セルギンを連れて逃げろ。今すぐにだ」

「いや、でも。兄貴はあんたを――」

「うだうだ言ってる暇はねえんだ! 死なせてえのか」


 彼には彼の意思があるのは分かる。思う通り、やらせてやりたくもある。

 しかしどんなことにも、限界は存在するのだ。引き返すべき分岐点。そこを越えたというイブレスを前に、議論の余地はない。

 ザハークの気迫に押され、弟分たちはセルギンを担ぎ上げた。意気消沈した一人を連れ、部屋を出て行く。


「お前、ら。戻、れ――!」


 うまく呼吸もままならぬらしい喉を酷使して、セルギンは叫んだ。

 ザハークを連れよと言うのか、自身をこの場へ繋ぎ止めようとしたのか、伸ばした手が虚しく宙を掻く。


「さて。悪いことは言わん、貴様も逃げろ」


 その間に公爵は立ち上がっていた。イブレスもだが、背に闇色の女を負った姿は、どうにも操り人形としか見えない。


「サリハ。何か手はあるか」

「あれは、紛れもなく女神ゲノシスでしょう。どうにかするなんて私には……」


 出来るか出来ないか、サリハは声の終いを消え入らせる。そうでなくとも部屋のあちこちが軋み始め、騒音が激しいというのに。


「私は自由な世界へ行くの」


 イブレスの唇が動き、声が漏れた。うわ言の様相だったが、不思議としっかりと聞こえる。

 それに従うように、石床へ大きな亀裂が走る。振動もより激しく、上に建つ城や家も無事では済むまい。

 降り落ちる石塊から守る為に、ザハークはサリハをきつく抱きしめた。

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