第74話:男の価値
「いけない!」
誰かが叫んだ。
巫女の叩きつける槍を避ける術は、ザハークにない。多少の距離を取ったところで同じことだ。
だから負傷を覚悟の上で、イブレスに肉迫しようとした。その瞬間だった。
ドン、と。重い振動が足元を揺らす。落雷を間近に聞いたときに似ていた。
眩い光と朦々たる影が、互いを喰い合う景色も。世界を包む夜を、稲光が切り裂くようだった。ザハークの目前で、力と力がぶつかり合い、弾ける。
「ああっ!」
悲鳴は後ろで聞こえた。元へ戻った視界を、背中に向ける。隣に居たはずのサリハが、五歩も先へ転げていた。
「サリハ!」
「だ、大丈夫です。ザハークこそ、怪我はありませんか」
前に伸ばした両腕が、酷く震えている。
何が起きたのか、眼に映らなかった。しかし瞭然だ。漆黒の槍は、ザハークの身を穿ってはいない。
「サリハ。貴女、掟を忘れたの」
闇色の壁が失われていた。だがイブレスは気にした様子もなく、巫女を前に口を聞く踊り手を責めた。
サリハは息を乱し、なかなか返事を出来ないでいる。それでも。きっ、と睨み返すのは、常にない。彼女にも猛々しさが内在したことに、ザハークは驚く。
「わ、忘れてなど――でも。していいことと、良くないことが」
「その蛇人を殺すのが、いけないことと?」
「そうです」
サリハはやっと上体を起こし、四つん這いになる。立てた膝が滑って、なかなか立ち上がれない。
ザハークが動いては、イブレスを刺激するだろうか。考えなくもなかったが、迷いはしない。堂々と背を向け、命の恩人に手を貸す。
「ザハークは、当て所ない私を大空へ導いてくれました。村のみんなの願いを、叶えてくれると言いました」
忙しく上下する胸を、サリハは自らの手で押さえつける。初めて見る憤りは静かで、沸き立つ溶岩のように熱い。
「それだけ? そんなもの、貴女の欲求に過ぎないじゃない。初めて行き当たった男を、特別に思い込もうとしているだけよ」
平然とした態度で、イブレスは答える。けれども平気そうなのは態度だけで、明らかに尋常でない様相もあった。
巫女の背から、煙が立ち始めた。炎による白煙でなく、闇色の障壁が溶けて漏れ出すように。
「そうかもしれません。そうだとしても、構いません。村のことも、イブレスさまのことも。私にはもう、どうしようもなかった。ザハークを信じ、今この瞬間まで裏切られていない。それだけで十分です」
サリハが何に怒っているのか。あれこれ想像は出来ても、真実は分からない。それに輪をかけ、今度は笑った。
聞いたイブレスも、一拍遅れて笑う。「そんなの――」と言いかけたのは、何だったのか。
「私も貴女も、愚かなのは同じのようね」
「どういうことでしょう」
「言った通りよ、同じ。何の力もない、逃げる勇気もない。閣下はそんな私を必要と言ってくれた」
鉄球を引き摺るように、重くイブレスは足を動かす。実際に言うことを聞かぬのだろう、三歩前に出るだけで息を切らした。
「だから、公爵閣下を信じると言うのですか。自分の居場所を作る為に、多くの人を犠牲にして厭わない。イブレスさまも同類だと、ご自分を卑下するのですか」
間違っている、とは言わなかった。やはりサリハには、イブレスが優先らしい。彼女に出来る最大の口撃は、公爵の悪事を一つ指摘することだった。
「……いいえ」
熱に浮かされたごとき表情で、イブレスは首を横へ振った。概ねサリハに向く視線も、焦点を結んでないように見える。
とは、おそらく正しい。憎しみを顕す瞳が、瞼の向こうへしまわれた。闇の炎の影響か、呼び寄せた女神とやらのせいか。
きっとイブレスの眼は、もう見えていない。
「嬉しかったのよ。私にも、巫女以外の道があると教えてもらえたから。その為に利用されると分かったから、私も心置きなく利用させていただいた」
当の公爵は何を思うのか。イブレスを見つめている事実のほか、察せることがない。視線にも表情にも、手や足の動きにも、意思や感情が見出だせなかった。
「私は利用なんてしていません」
「そうかしら。同じだと思うけど」
黄昏の巫女。巫女の踊り手。二人の女神に仕える二人の女は、それぞれ意思を曲げない。
ザハークは、話させてやりたいと思った。この場から逃げ延びられるや否や。結果はともかくとして、彼女らの話す機会は二度とないだろう。
イブレスはともかく。サリハが敬う相手の想いを知る時間は、大切なものだと考えた。
――盗っ人に、察しろとは言えねえがな。
好機であるのも否定はしない。
公爵の眼はイブレスに、イブレスの意識はサリハに。ザハークは素より、セルギンたちを注視する者はなかった。
飛盗の頭と弟分の二人は、足音を潜めて公爵の背後へ回り込む。
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