第73話:障るもの

「セルギン。ここでいったい何があった!」

「いやそれが、弟分が途中で倒れてて。来たのは旦那と、そう変わらないんでさ」


 腕っぷしで公爵は、きっとこの場の誰にも勝てはしない。細く華奢なサリハでさえ、舞踏で鍛えた筋肉がある。宰相閣下は歳のせいもあろうが、皮の下に繊細さだけを詰め込んだようだ。

 すると弟分たちが打ち負かされたのは、やはり闇の炎を用いたのだろう。この部屋でなく、通路の途中でだ。


「何だと? じゃあこの酒瓶は、誰が空けたってんだ」


 十五、六本もあるか。本当に酒ならば、腹いっぱいになる量だ。一本を浴びせられただけで、ザハークは瀕死に陥った。そんな物を、そんな量を、何に使ったと言うのか。


「飲んだのよ、私がね。女神を呼ぶ為に」

「女神を呼んだ、だと?」


 話すうち、闇色の壁が陣地を拡げていた。ほんの少し、半歩分ほど。

 酒瓶などと言ったのは、あくまで冗談に類する。しかしイブレスに、洒落た空気などない。険を強め、公爵以外の全員を睨みつけた。


「あなたたちが追い詰めるから。私はただ、逃げたかっただけなのに。公爵閣下が手伝うと言ってくれたから、逃げる勇気が持てたのに。どうして邪魔をするの」


 また半歩、障壁は半径を拡げた。

 最初に転がされたセルギンの弟分は、震える小動物のごとく身を縮める。


「まさかこの壁が、闇の炎と同じなのか」

「きっとそうね。私には聞こえる、ゲノシスの声が。女神になることを押し付けられ、その座さえも妹に取って代わられた。愚かな女の哀しみの声がね」


 じりじりとセルギンは、死角へ回り込もうと足を滑らす。イブレスの視線はザハークへ、いやその隣のサリハに向いた。見えているはずがない。


「命が惜しいなら、余計なことをしないで!」


 両手を拳に握り、力んで立つイブレス。両の眼がセルギンに向けられると、壁の一部が伸びる。

 溶けた鉄を、瞬時に槍へと成形したように。鋭い切っ先が行く手を切り取り、元へ戻った。


「はっ、はは。あたしはお手洗いを、ね」


 今のは威嚇。視覚的にも、対応の範囲にも、死角のないことの証明。


 ――自分らのことは放っとけってか。

 ここを去るなら、追ってまで来ぬに違いない。

 イブレスの言う通り、これが女神の力というなら。人間や蛇人にどうこう出来るはずもなかった。


「ギュエッ!」

「ダージ!」


 人だけでなく、竜にも大きな害を与えるらしい。ダージの羽先が、闇色の壁に触れた。

 堪らず相棒は痛みに声を上げ、敵意をイブレスに向ける。


「ダージ、待て。この女には、まだ聞かなきゃならねえ。お前は上で待っててくれ」

「キュゥ」


 不満げに、居残りを希望する。しかし身体の大きなダージには、もう障壁から逃れるスペースがない。

 渋々という視線を最後まで向けつつ、相棒は泉の中へ飛び込んだ。


「さあ、もういいでしょう。早くどこかへ行ってちょうだい。私は人間を超えてしまった。あなたたちが何人居ようと、問題にもならないわ」


 ダージの居た床を、障壁が侵す。これで泉から地上へ出ることは叶わなくなった。


「早く消えて!」


 ヒステリックなイブレスの叫び。刺々しさを具現化したように、無数の槍が突き出る。

 頬をかすめ、股の下を貫き。腕一本分の空白さえ、どこにも見つけられない。


「これが最後の警告。次は射抜くわ」

「イブレス殿、十分でしょう。猶予を与えねば、奴らも逃げるに逃げられません」


 公爵の手が、イブレスの肩を抱く。と、びくっと巫女の肩が跳ねる。


「か、閣下が仰るなら。もう少しこのまま待ちましょう」


 慄いてしまったのをごまかすように、イブレスは早口で答える。掻いていない汗を、手の甲で拭いもした。


「せっかくの厚意だ。セルギン、お前は逃げてもいいんだぜ」

「そうはいかないんでさ。旦那が残るのに、あたしらだけが逃げる。そんな真似は――二度と出来ないんだ。俺にはね」

「面倒臭え野郎だな」


 障壁を打ち破る方法に心当たりがない。いっそ引き上げて、また隙を狙うほうが早いかもと思う。

 ただそれにはイブレスが国を出る前に、障壁が引っ込める保証が必要だ。


 ――その気なら、問答無用で動いてるはずだよな。

 こちらは近づけぬのだから、薙ぎ倒して通路を戻ればいい。そうしないのは、イブレスに人を傷つける気がないからだろう。

 だとすれば頭数は多いほうがいい。巫女の機嫌次第の、危険な話ではあるが。


「聞いての通りだ。どうも好奇心旺盛らしくて、迷惑をかけるな」

「迷惑と思うなら、貴公がよそへ行けばいい。彼もそう言っているではないか」


 イブレスに送られていた公爵の視線が、ザハークに向く。優しげな気配が、僅か残る眼だった。

 心から受け入れられてはいない。承知しているのだろう、巫女のほんの少しの身動ぎに、一国の宰相はおどおどとした。


 ――そんな顔を見せられちゃ、もてない仲間に入れたくなるじゃねえか。

 二人を誅したとして、弱った国力が戻るわけでない。ならば出て行くと言うのを、引き止める必要もないではないか。

 逃げ出すことが彼らの意思なら、行かせてやればいい。などと過る気持ちに、ザハークは無視を決め込む。


「俺か? そいつは無理だ、賞金稼ぎとして契約しちまったからな」

「契約だと?」


 この場から去らぬこと。誰がそんな約束を求めるものか。また妙な時間稼ぎか、と考えたに違いない。公爵は警戒に眉を顰める。


「しただろ、あんたと。俺は敵を倒す。この国を脅かす敵をだ」

「そんな話をした覚えは――」


 言いかけて、苛々と頭を掻く。どうやら公爵も思い出したようだ。私室へ乗り込んだとき、たしかに契約したことを。


「いい加減になさい、もう我慢も限界です」


 公爵が黙り、巫女は憤った。サリハと同様に、根の真面目そうなイブレスのことだ。ザハークがふざけてばかりで、我慢がならぬのだろう。


「穢らわしい蛇人。あなたが居なければ何もかも解決します。死になさい!」


 イブレスの震える細腕が振り上げられる。その動きに従って、闇色の壁も飴のごとく曲がった。

 漆黒の槍。あるいは鞭となって、ザハークの頭上へ叩きつけられる。

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