第72話:泉の中

「底が抜けちまったのか?」


 泉の中には、流れがあった。当たり前に水の落ちる速度で、下へ下へ。

 飛び込む前に見た水面は、鏡のごとく平らだった。その水中に流れのあることは、当たり前でないけれど。

 上も下も、どこまでも見通せた。透き通って、遮る物はない。あるいは何も見えていないのでは、と疑うほど澄んだ景色。

 ただし横方向には泉の中らしく、土や岩の壁が続いた。


「遥か昔、潜ってみた巫女が居たそうです。水晶の中を揺蕩うように透明で、じっと動かず、果てがなかったとか」

「闇の泉もか」

「ええ。沈んでしまうと、区別がつかなかったと聞いています」


 以前は動かなかった水が、今は動いている。地震や色の具合いに比べれば、問題でないのかもしれない。

 水中で、ごく自然に会話の出来ることに対しても。


「出口らしい。覚悟はいいか」

「――どうにかします」


 水柱はまだまだ続いた。本当に果てなど無いように。

 しかしその中途、横へ抜ける穴が見えた。長方形の窓のような、ダージがくぐるにも苦のない、大きな穴だ。


「ダージ、出よう」


 大丈夫だと言うサリハの腕が、ザハークの腰を強く締めつける。肯定に動く首も自身を納得させ、奮い立たす為に思えた。

 だが残酷でも、待ってやる猶予はない。ダージの爪が窓の縁にかかって、のそりと這い出す。

 そのとき気づいたが、水柱の光る部分は、上向きに流れていた。


「久しいな、公爵。取り込み中かい?」

「旦那」


 隠し通路の続きであろう。石造りの部屋の隅に、公爵とイブレスは寄り添って立つ。二人とも、緊張に顔を強張らせて。軽口に答えたのは公爵でなく、セルギンだった。

 およそ十メルテ四方。広いが、ダージには狭い。相棒の尻尾はまだ、滝のように昇る・・・・・・・水の流れに浸かった。


「おやおや、散らかってるな」


 ダージの背から飛び降り、同じくサリハも受け止めてやる。

 公爵の足元には脚の短いテーブルが倒れ、さらに周囲には白い瓶が十数本も転がった。


「横流しがこれだけ、ってことはねえな。やっぱりもう、よそへ運び出したか」

「横流し? 旦那、そりゃあいったい」


 聞いていた弟分だろう。セルギンの左右には、近い年代の男が三人。少し顔色が悪そうに見える。


「説明するまでもねえだろ。そこらに転がってんのが、証拠品だ。ほんの一部だがな」

「公爵自らが犯人ってわけですかい。でもそんなこと、何の得もないでしょうや」


 やはり誰も、同じ疑問を抱く。一つ国家の宰相が守るべき国を売り渡すとは、なかなか考え難い。


「公爵は神話なんざ信じちゃいねえ。余計な手間と思ったんだろうさ、泉の水を汲むのを禁止しちまった。ついでに川の水もだ。こっちは瓶の流れるのを、見られちゃまずいからだ」

「光の川で、闇の炎を……?」


 少なからず、セルギンも驚いた。それよりも分かりやすく、ひゅっと息を呑んだのはサリハ。


「川の監視をしてた奴。スロープを守ってた奴。街道を見張ってた奴。全員が運び屋ってわけだ」


 笑い病に罹った、大勢の騎士や兵士。中に演技の者も居たに違いない。

 確証はなく状況からの推測だが、間違っていないはず。今さら何の悪巧みか、無言のまま時を潰す公爵を待つ。

 やがて、不信心な宰相は笑った。「困ったものだ」という風で、失笑を漏らす。


「いかにも。私はこの国を売り払った。闇の炎はそのついでだ。おかげで親愛なる東国の国王陛下は、いつでもと迎えを待たせてくれている」

「そうかい。じゃあ無駄足になったってのは、俺から伝えといてやるぜ」


 どさくさに隠し通路を脱出し、国境へ向かう手筈があったのだろう。しかしセルギンと出くわし、この部屋へ来てしまった。

 また何やらからくりがあるやもしれないが、ザハークとセルギンの両者が目の前では容易でない。


「貴様らのような無頼を前に、私が備えもないと思うのか?」

「思うね。床に転がってる空き瓶が、その備えだからな」


 白い瓶はどれも蓋がされていない。セルギンの弟分たちに使ったものと見込んだ。追い付いた兄貴分が、光の炎で打ち消したのだと。


「愚かな」


 小さく嘲笑を浮かべるだけで、公爵は当然に手の内を明かさない。


 ――どうだか、やってみりゃ分かるさ。

 睨み合いになっても、埒が明かないのだ。己の予測を信じ、ザハークは飛びかかろうとした。


「愚かなのはお前だよう!」


 一瞬早く、跳ねた者が居る。セルギンの隣に居た、丸顔の男。たぶん彼らの中で、最も若い。

 男の握るナイフが、公爵に投げつけられる。同時に反対の手にも、また別のナイフが握られた。


「閣下!」


 高く声を上げたのはイブレス。

 勢いままに組み付こうとした男と、飛翔したナイフ。双方が撥ね返され、石床に転げ落ちる。

 まるでそこへ見えない壁があるように。いや、見える。一枚の布ほどしか厚みのない、闇色の壁。色も薄く、透けて見える頼りなげな障壁。


「兄貴、何だこいつ⁉」

「巫女の力ってやつかね……」


 セルギンの呟いた通り、光の泉を背負ったイブレスによるものとしか考えられない。先刻のサリハが、ザハークを救ってくれたのと同じように。

 彼女なら何か分かるかも。対抗する手段があるかもしれない。そう思い、踊り子を見下ろす。

 しかし驚愕に目を見張るサリハは、呆然と首を横に振った。

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