第64話:足止めの罠
「巫女をやるにも資格が必要で、他の奴はどうやっても出来ない。ってことか」
公爵の胸に顔を埋め、イブレスは返事をしなかった。ちらり、サリハに視線を落とすと、こちらは遠慮気味に頷く。
「そうかい、無理を言ったのは悪かった。しかしな、何もかも投げ出して逃げるくらいは出来るだろうよ。逆立ちしたって無理なのは、あんたのせいじゃねえ」
空が降ってくる。浮遊島の直下へ住む人々の空とは、自分たちを包む永遠の夜のことだ。
即ち、浮遊島が落下する。女神の力で浮いているなら、巫女の怠慢でそうなるのも分からぬでない。
「巫女の使命が村を救うって、先延ばしにしてるだけだろ? そんなのは、やめちまえばいい。もうあの村は、ざくっと大掛かりなことをしなけりゃ必ず滅ぶ。子どもでも分かる事実を前に、あんたの我がままなんざ、どうでもいいこった」
「どうでもいいですって?」
噛みつかんばかりの表情で、イブレスの顔がこちらを向いた。けれど発せられた声は、悲観に震える。
「イブレス。無頼に何を説いても、通じはしません。言語が違うのですよ」
一瞬、誰が言ったのか声の主を探したほど穏やかに。公爵はイブレスに優しく語りかけ、ソファから降りるよう促した。
「どこへ行く気だ」
「無論、貴様の居らぬところ」
ザハークの左手にある扉へ、二人は向かう。邪魔をしてくれるなと。無法を働いているのがどちらか、分からぬ言い様で。
「道中気をつけて。なんて、言うとでも思ってんのか」
肩を寄せ合い、ゆっくりと歩く。呼びかけても、振り返ろうとはしなかった。扉に手をかけ、「あり得んな」と。ようやく返事をしてさえ、無視を決め込む。
「悪いが行かすわけには――」
飛びかかろうと、体重移動をした瞬間。ゴリッと、石のずれる嫌な音が鳴る。
――崩れる。
それだけでは、どれほどの規模か分からない。なぜ崩れるのかも分からない。たしかなのは、直ちに落ちるのが頭上ということだけだ。
「サリハ、避けろ!」
思いきり床を蹴り、細い身体を抱えて飛ぶ。硬い石床をただ転がるだけでも、サリハには危ない。
体躯を丸め、黒猫を包み込む。おかげで受け身が取れなかったけれど、大したダメージにはならなかった。
ゴゴゴと全身を揺らす振動が収まり、目を開けてみる。胴体ほどもある大きな石が、山積みに視界を塞ぐ。
もうもうと立つ砂煙。公爵の開けようとした扉は、山の向こう側だ。
「怪我はねえか?」
もぞもぞと、腕の隙間から顔を出すサリハ。締め付けすぎたらしく、ぷはっと息を吐く。
崩落にぎょっと目を見張りながらも、問いには頷いて答えた。
「クソ、逃げられちまった。タイミングが良すぎるぜ」
仕掛けがあったとしても、発動させた素振りはなかった。自然に起きたとすれば、範囲が小さすぎる。
警戒しつつサリハを立たせ、残った扉を探す。しかしその前に、人の声が聞こえた。
「貴様に褒められても嬉しくはないが、礼くらいは言うべきか?」
山の頂上辺りに、脚が見える。声と同じく、女の物。
「礼ってのは、考えてするもんじゃねえ。嬉しけりゃ、自然と出てくるもんだろ」
「違いない。となればやはり、必要ないな」
既に剣を抜き、危なげなく山を下りるのはトゥリヤ。石の天井を落とすことで主を逃がしたのは、どうやらこの女だ。
「サリハさま、私は貴女に何の感慨もない。邪魔さえしなければ、危害を加えることもない。ですからどうか、おとなしくしていてください」
前置きは、それだけだった。床まで残り数歩のところで、トゥリヤは背を反らす。
ぐうぅんと、反り返る音が聞こえそうだった。己の身体を弓として。突き出した剣と右腕が、あたかも矢のようだ。
「行くぞ!」
「来やがれ!」
素より広くもない部屋が、半分以上を埋められた。唯一無事だった右手の扉にサリハを押し込み、迎え打つ。
ぐん、と。白銀の剣筋が伸びる。それは違わずザハークの喉を狙い、横飛びに避けた。
床を転がる度、右へ左へ。ときには上げかけた頭上へ、白い軌跡が残像を残す。
「猫を被りやがって」
「
速い。刃が閃くごと、持つ剣を一本ずつ増やしているかのようだ。
同時に二、三人から切りつけられる思いで膝を縮め、首を竦め、首を仰け反らせて避け続ける。
「筋肉自慢かと思ったが違ったな」
「手の内を見せるのは、ここぞの時」
身体を起こす隙がなく、無様に床を跳ねるしかない。
ときには壁を蹴り、その勢いで立とうとするが。やはり上体の起きる先を、既に剣閃が侵している。
一撃の威力を頼みにしていると見せてきたのは、特技を悟らせぬ為だったらしい。
「いいのか、もうお前の姫さんは帰って来ないぜ」
ただただ好戦的だった気配もなく、冷静に逃げ場を限定された。ザハークの体力が並であれば、疲弊に動きを止めていたろう。
それにしても反撃の糸口がなく、せめてもの口撃だった。多少なりと手が緩めばと思ったのだが、トゥリヤはぴたりと動きを止める。
「あの計算高い公爵が、どうしてわざわざ国を弱めるような真似をしたのか。お前は知ってんのか」
猛烈な鋼の雨が小休止の間に、ありがたく立ち上がらせてもらう。
この反応は、予想外だったから。そう思い、改めて問うた。だがトゥリヤの返答こそが、ザハークに予想外だった。
「当然だ。我が主、イブレスさまの意向こそが私の望み。それが地獄の窯を開けよと仰るのなら、必ず成し遂げる」
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