第53話:闇より還る
景色が縮んでいく。ギュウゥッと、音の聞こえそうなほど急速に。
――寒い。死にたい。もう疲れた。失敗だらけで生き続けるのは、もう嫌だ。
見えない現実の代わりに、久しい師の背中が浮かぶ。
懐かしいと思うより、何も知らなかったこと。手伝えと言ってもらえるだけの男でなかったこと。己の無力さを責める気持ちが強く際立つ。
見えたのは師だけでなく、これまで出会ったたくさんの人々。種を問わず、性別や職も問わず。
もう少しうまくやっていれば。どの顔も、ザハークに後悔の残る死を遂げた。
「すまねえ。俺にもっと気が利けば、死ななくて済んだろうに!」
慟哭に叫んだはずだが、自分の声ももう聞こえない。たくさんの顔が遠い果てに。漆黒に巻く渦へ、呑み込まれていく。
急流の最後を行くのが、サリハだった。
腕を伸ばし「掴まれ」と呼ぶ。だのに彼女は気づかない。背を向け、自ずと望むように、黒い渦へ歩を進める。
「行くな! 俺はまだ、お前に礼を出来てねえ! お前の頼みも果たしてねえ!」
一万メルテも離れたかのごとく、微塵も気づく気配がない。それでも伸ばした腕の先、震える指でどうにか掴もうとする。
――村があのままでいいのか。村の奴らが見たい景色を見に行く。お前は一緒に居なくていいのか。
そうなっては、あまりにも悲しい。そんな未来は、あまりにも寒い。
苛立ち、憤り。荒ぶる感情は消え去り、凍える恐怖ばかりが胸を覆った。けれどもその中に、一摘みの温かさが残る。
冬の大地。雪と氷を突き破る、小さな小さな若芽のような。
「サリハ!」
声が聞こえた。守ろうとする者の名前。他の誰でもなく、ザハーク自身の声が。
しかしやはり、闇の中だ。分厚い夜の天井が落ちてくる。重く伸し掛かり、若芽ごと潰そうと。
届かない。もはや腕を向ける力も尽きつつあった。意識の潰える瞬間まで、それでも伸ばし続けたが。
「……ザハークさま」
「サリハ?」
気のせいだろうか。それとも死を間際の、あるいは死後の、幻聴だろうか。
弱々しく、渦に呑まれたサリハの声がどこかから聞こえる。
――どこだ。
それはザハークの、背中の側。神官長へ襲いかかろうと、闇の炎を受けた間抜けな男の後ろ。
「ザハークさま!」
間違いなかった。今度は確実に、比べ物にならぬほど強く、サリハの声が耳に轟く。
同時に身体を包む、心地のいい真綿のような感触。
とても暖かい。極寒の土地で氷漬けになったとき。初めてダージと出逢い、あの柔らかな羽毛に包まれたのを思い出す。
「ザハークさま、お気を確かに! 闇は私が払います!」
「助かるぜサリハ!」
言葉通り、闇が消えた。怪しく揺れる闇の炎も、後ろめたく造られた神殿の暗がりも。さあっと、寄せた波が引いていくのに似て。
まるで屋根と壁を打ち崩し、陽の下へ晒したように。強く、強く照らされる。
「な、何ごと!」
神官長は両腕を顔の前に。太陽を忌避する
いやそれは神官たちもで、無理はない。浴びせられるのは強烈な光の洪水だ。ザハークも背中を向けていなければ、同じように苦しんだろう。
「もう奥の手はないらしいな」
悠然と。最大限の警戒を持って、ちょうど腕の届く位置へ立つ。ごてごてと装飾のされた神官長の首元を、指先で摘んだ。
「な、何を。ぐうぅっ」
「何日か瞑想をするのは当たり前、だったか?」
「ぐっ、ぐげっ」
指二本で吊り上げ、隣の部屋へ運ぶ。サリハが入れられたのと同じ、狭く何もない空間だ。
汚物を捨てる心持ちで、摘んだゴミを投げ入れた。
「お前らもだ」
ふぎゃっ。と上がった悲鳴には構わず、残る二人の神官を呼びつける。すると躊躇いながらも、素直に言うことを聞いた。
鍵を出させ、閉めた扉に錠をかける。皮肉の一つも言うべきだろうが、そんな気にはなれなかった。
「サリハ――」
また隣へ戻ると、輝きがまだ収まっていなかった。光源は胸の前へ捧げ出された、彼女の両手の中にある。
「それは?」
我が子を愛でる母。優しい眼差しは、そんな風に見えた。ぐずる赤子を宥め、あやすように柔らかく、両手が光の球を撫でる。
「イブレスさまと私だけが、闇の泉から炎を汲み出せます。それなら光の泉からも、同じように出来るのではと」
「光の炎ってとこか」
頷くサリハの見守る中、やがて輝きは溶けて消えた。手に残った最後の欠片を、彼女はそっと送り出す。羽化した蝶を、野に放つ手つきで。
狭い通路に、元の自然の暗がりが戻る。照らすのは、神官の落としたランタンの炎だけだ。
「よく無事だった」
硬く笑むサリハは、少し顔色が悪い。けれども先ほどは全く見えなかった体温が戻っている。いつもより低くはあるが、温かい物でも食べればすぐに戻るだろう。
「私も不思議です。どこかで気が遠くなって、でも光の泉がとても近く感じて。ミトラの胸に抱かれた心地でした」
この世界に魔法はある。神の奇跡と呼ばれる
だが聞き及んだほとんどは、誰かが意図して行使したものだ。それはザハークが槍を振るい、ダージに炎を吐いてもらうのと根本で変わらない。
前後不覚に陥った者を、人智の及ばぬ何かが勝手に救ってくれるなどと。神話や伝説でしか聞かぬ話だ。
「そうか。それならようやく、ここの女神さまを労ってやれるぜ。よくやった、ってな」
なるほどどうやら、土地の者の盲信ではないらしい。実在する神と言うなら、思うところもあった。
しかし今は、温もったサリハの頬を撫でてやりたい。そっと伸ばした指先に伝わる、しっかりとした脈動もだ。
「ああ、忘れるとこだった。お前に一つ、言わなきゃならねえ」
くすぐったさに踊り子は、僅か身を捩って耐える。指の動きを止めると、溜めた息を「ほうっ」と吐いた。
「何でしょう?」
どうにか笑いを堪えきった顔を引き締め、サリハが見つめ返した。
言うべき言葉。伝えたいことは、決して一つで済まぬ。死ななくて良かったと、心から思う。
だから、今言うのは他にない。
「さま、は要らねえ。ザハークだ」
「あ」
ちょっと驚いた顔。しかしすぐに、笑って答えがあった。
「私を見つけてくれて、ありがとう。ザハーク」
「気にすんな」
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