第54話:国に蔓延る病

 笑顔に翳りはなく、意図的に無理をしてはなさそうだ。しかし三日、何も食っていない影響が足に見えた。


「あっ」

「おっと、慌てんじゃねえよ。まだそいつらに用があるんだ」


 よろめき、転びかけた。その先に手を伸ばし、支えて引き寄せる。常から軽い体重が、腋へ腕を通すと軽々運べた。誤って衣服だけを持ち上げたかと、改めて目を向けてしまう。


「おい」


 扉越しに、声をかけた。サリハにでなく、神官たちにだ。見ると平手が抜けるかどうかの、小さな窓があった。それを開け、もう一度呼ぶ。


「何だね。人をこんなところへ閉じこめて、話などないだろうにね」

「そうでもねえさ。返答に依っちゃあ、こいつはくれてやる」


 大の男三人が蹲ると、余剰の隙間がほとんどない。最も奥から、神官長の声は聞こえた。


「本当かね。私の知ることなら答えよう。女神に仕える身だ、嘘は言わんよ」


 真っ暗な中、手前の二人を踏みつけながらやって来る。落ち着いた声を装っているが、窓から飛び出さんばかりの勢いだ。

 灯りに浮かび上がった顔は脂汗に塗れ、さしものザハークも半歩退いた。


「そ、そいつは助かる。早速だが、食い物はねえか? パンとか果物とか、手っ取り早いのがいい」

「二つ隣が私の私室だ。甘い樹果と、焼き菓子もあったはず。それで良いかね?」


 男の部屋の臭い消しに置かれた果実など、食い気をそそる物でない。が、贅沢も言えまい。「十分だ」と言ってやると、神官長は窓の縁へ額を打ち付けて叫ぶ。


「ならば鍵を! 早く渡してほしいんだがね!」


 狭い場所が苦手のようだ。内側に鍵穴はないはずだが、その判断もついていない。


「用件が一つと言った覚えはねえ」

「で、ではいくつかね。早く済ませて欲しいものだね!」

「安心しろよ、次で終いだ」


 分かった、早く。言って神官長は、何度も頷く。夜を明かしたように血走った眼が、苦痛を物語る。


「この国には変わった病が流行ってる。そいつの原因を、お前らは知ってるはずだ」

「病? 何のことかね。コーダミトラに流行り病などと、ここ十数年ない話でね。まさか風邪とか、下し熱とかを言っているのかね」


 事情を知らぬ騎士団長は、笑い病と表現した。じわじわと拡がり、程度を増していくさまが言わすのだろう。

 だが神官長は、さっぱり分からないと言う。とぼける風もなく、公爵ほど腹芸に長けているとも思えない。

 やはりこの国の民が笑い続けるのは、人為的な理由に拠る。


「もちろん違う。でもあんたなら知ってるはずだ。この国の神殿じゃあ、一番偉いんだろ?」

「いや私は二番目だね。教主は公爵閣下がお勤めなのでね」

「ああ、あの公爵の次か。なおさらじゃねえか」


 なおさら知っているはずだ。真っ黒だ。という意味で言ったのだが、神官長は機嫌を良くする。


「それで何かね。早く言って欲しいものだね」

「勿体つける気はないさ。俺が聞きたいのは、何でお前らは笑ってねえのか。王と公爵と、天空騎士団と。それに奴隷だ」


 少しの灯りに見えていた神官長の眼が、すうっと見えなくなる。息を止め、窓から離れた。

 それだけでも、何か知っていると言ったも同然だが。


「どうした、知らねえとでも言う気か? 俺には何も分からねえが、お前が知ってるってのだけは知ってるぜ」


 腋に抱えたままの黒猫も、ぎゅっと身を押し付けてくる。声は聞こえず、顎の動きが何か呟いたことを知らせた。きっとそれは、ザハークの名だ。


「私は……」

「言いにくいだろうさ。でも信用ならねえだろうが、お前が言ったのは秘密にしてやるぜ? それにいいのか、言わなきゃこれは渡さねえ」


 窓から鍵を挿し入れる。咄嗟に掴む感触があった。当然に握力で劣るはずもなく、抜き取られるおそれは万に一つもないけれど。


「くっ――分かった、言うけれどもね。私が言ったとは」

「くどいな。俺はお前らと違って、嘘は嫌いなんだ」


 決心してもなお、神官長の天秤は揺らいでいるらしい。それは鍵を引っ張る力という形で、ザハークに直接伝わる。

 しかし十数拍の後、ボソボソと告白がされた。


「陛下の即位された折、幾つかの法が施行された。税について、国の出入りについて。それから水を汲む権利についてだね」


 窓の灯りが神官長の指を照らす。力はこもっていない。ただ鍵に触れているだけの。だのに小さく、激しく震えた。


「水? 自由に汲めた光の泉に触れられなくなったことか。それとも光の川でさえ、銭がかかることか」

「違うのだね」


 太く角張った指が、力なく下ろされる。窓の向こうへ消え、僅かに差し込む灯りが、神官長の胸を照らす。


「違うって、それ以外に水の話があんのか」

「そうではないのだね」


 急かしたいのはザハークも同じ。けれども何か、覚悟を決める時間が必要と見えた。深呼吸のように大きく息を繰り返すさまを、黙って待つ。


「光の泉の水は、自由に汲めたのではないのだね。毎日必ず汲み上げ、必ず飲むこと。それがコーダミトラへ住む者の、義務だったのだね」

「義務だと? そうしなきゃ、あの笑い病に罹っちまうのか。そうと分かってて、お前らは水を飲ませなかったのか!」


 罪の意識はあるようだ。自重気味に、ゆっくりと頷く動きが扉越しに見える。


「巫女が泉に闇の炎を注ぐ。光と闇の混ざりあった水が、強すぎる女神の恩恵から人を護ると記されておるのだね」


 それほどはっきり言い伝えられたものを、どうして公爵はやめさせたのか。

 治める民は愚かなほうが、為政者には楽なものだ。しかしその為に国を貧しくし、騎士団まで弱くしてどうするのか。


「公爵閣下は神話を信じておられぬ。だからそんな、女神の怒りを畏れぬ指示を出せるのだね」

「それだけじゃねえだろ。公爵は何を企んでやがる」

「企みかは知らんがね。巫女を辞めたいと言うイブレス殿を利用して、闇の炎を大量に懐へ隠しているのだね」

「イブレスさまが!?」


 思いもよらぬところで出た名に、サリハが悲鳴を上げる。宥めようと頭を撫でてやると、縮こまってしまった。


「何の為に」

「それは知らない。コーダミトラの先行きに、必要な備えとだけ聞いているのだね」

「そうか、よく分かったぜ」


 ザハークは扉に付いた窓へ、鍵を放り入れた。石の床へ落ちた甲高い音色が、狭い通路に響き渡る。

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