第45話:作られた事実

 ひと思いに殺してしまえば、すっきりするだろう。そんな下策中の下策を選択しないけれど。


「面倒だな。一緒に王さんも捕まえとくか」


 間近となった監視台に、この国の上位二人が見える。一人は赤い織物で飾った椅子に肘をつき、大きなあくびをする小太りの男。

 あの王は何も知るまい。ザハークが悪事を働くとして、あれだけは仲間に置きたくない。

 鞍の後ろへ括ってあるロープの束を外し、腰に結わえた。王と公爵は、もう真下だ。


「あいつ、何を――?」


 レミル公爵は手持ち無沙汰に、両手を後ろへ組んだ。褒められた格好ではないが、平和ボケのコーダミトラでは珍しくないのだろう。

 ただ、その姿勢のまま王との距離を狭める。二人ともが戦場を眺め、一段低いところに居る護衛の兵士も背を向ける中。床から足を離さず、滑らせる。

 するっ、するっと。指一本分ずつを、這い寄る毒蟲のように。


「まずい!」


 腰を折り、兄王に耳うちする素振りをした。上空のザハークからは、背中がよく見える。後ろ手に、光る物があった。

 兄とは言え、一国の王の傍で。弟とは言え、一国の宰相が。抜き身のナイフを握っている。


「ダージ、行けムスターク!」


 たしかに誰の注意も集めていない。だからと、なぜ今なのだ。王を弑するなら、他にいくらでも機会はあったろうに。

 ゴウッ。急降下に、たちまち風が硬い壁となる。押し退け、最後の五メルテほどを飛び下りた。


「ザハーク殿!」


 急迫した竜には、さすがの兵士たちも気づいた。味方であっても、王の頭上を脅かす不埒者には違いない。近かった六本の槍先が、残らずザハークへ向けられる。


「ひぃぃ! あ、兄上!」


 何ごとか問い質される前に、悲鳴が上がった。それは痩せた公爵の口から。

 王の座る椅子から、撥ね飛ばされたように後ろへ飛び、尻もちをついた。恐怖に慄いた表情と、手で押さえた左の肩口から覗く赤い汚れ。


「公爵閣下!」

「何ごと!?」


 遅かった。

 凶行を止められなかったザハークは、駆け出そうとした足を戻す。


「チッ!」


 してやられた。

 これほど明け透けな場所で、何をすることも出来まいと思い込んでいた。仮に王を殺しても、それは単なる弑逆なのだから。


「いったい何が!」

「閣下、お怪我は!」

「い、いや。だだ、大事ない。私より兄、兄上を!」


 酷く怯えたような口調で、公爵の指が王を指し示す。痛みのせいか、ぶるぶると大きく震えさせて。


「へ、陛下!」


 囲むうちの二人が、国王に駆け寄る。王は唖然と感情を失った顔で、椅子に掛けたままだ。


「これはどうなさったのです!」


 先ほどまで肘をついていた右腕に、血が滴った。垂れた筋を辿れば、腕から手首、手首から指。最後に、握られたナイフの刃へと至る。

 兵の一人が、無礼を詫びながら手を開かせる。抵抗するでないが、離そうとするわけでもないようだ。


「陛下、お怪我をなされます。お手の物をこちらに――陛下!」


 終いは強引に奪い取った。行為の瞬間を見ていなくとも、いや見ていないからこそ、王が公爵を刺したとしか思えまい。


「陛下、お気持ちをたしかに。いったい何があったと言うのです!」


 反応の鈍い王の腕を、兵は揺する。その反動でこぼれ落ちたかのごとく、抑揚のない声がひと言だけ聞こえた。

 錆びついた鉄細工のように、国王はぎこちなく首を回す。

 朱に染まった自らの腕を、めつすがめつ。初めて会った珍獣さながらに眺め、目を剥いた。


「我は……」


 何か言ったろう。声が小さく、ボソボソと聞き取れなかった。

 当然だ。自身の負うべき政治を丸ごと肩代わりしてくれる弟が、突如としてナイフを押し付けてきたのだ。

 あまつさえ、その切っ先は愚鈍な王には向けられなかった。勤勉な公爵は、兄王の手を使って自傷を行ったのだ。


「兄上は。畏れながら国王陛下は、お心を乱し遊ばされた! 誰か、直ちに奥へ! 静かな場所へお運び申し上げるのだ!」


 ようやく公爵が対処を叫ぶころ、城壁の離れた位置に配置された兵も駆け寄って来た。

 それで気づく。最初から監視台を取り巻いていた兵は、笑っていない。王や公爵、天空騎士団と同じに。


「お前らも近衛か」

「左様です。ザハーク殿は、この異変を止めようとされたのですな。おかげで公爵閣下の命には別状ないようです」


 手近な近衛兵に尋ねると、慇懃な礼の言葉が返った。

 ザハークが言葉を継ぐ前に「陛下をお連れせねば」と立ち去る。王の手から奪ったナイフは、一般兵に手渡された。「絶対に失くすな」と、脅しめいて念が押される。

 そうして国王、レミトラス二世は連れられて行った。


「閣下も手当てをせねば」

「いや、ここで良い。気づいておらぬ兵たちに、無用の懸念をさす必要はないだろう」

「おお、素晴らしきお覚悟です」


 近衛兵の肩を借りて立ち上がった公爵は、毅然と居残る。近衛兵のわざとらしい説明に、一般兵も感嘆の息を漏らした。


「閣下、せめて私どもの応急措置をお受けください」

「そうか。その気持ちは、ありがたく受けるとしよう」


 当て布や清潔な手拭いを取りに、一般兵の一人が走った。

 これで弟を殺そうとした王と、乱心した兄をも気遣う弟。その立場が固定される。


「ザハーク殿、貴公にも心配をかけたな。見ての通り大事ない。戦場へ戻り、存分に戦われよ」


 ニヤリ。勝ち誇った笑みさえ、一般兵には畏敬を抱かせるに違いない。

 この場で事実を語りたいなら、やってみればいい。信じる者が居なければ、真実も騙りとなる。

 公爵の表情が、雄弁に示した。

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