第三幕:陰謀
第34話:二つ目の依頼
城門を出たザハークは、通りを右に進む。この街を訪れて最初に見た、あの鬱陶しいまでの人混みは影もない。
誰か居ると思えばどれも兵士で、住人たちは固く閉じこもっている。それでいて板戸の隙間から覗く気配、こそこそと何ごとかを囁き合う声が耳にこそばゆい。
誰もがザハークに、蔑みの視線を向けている。無論この街のことであるから、嘲りの笑いを多分に含んで。
「特等なんて見せかけ……」
「やっぱり蛇は……」
断片的に聞こえる声は、蛇人の扱いとしていつものこと。むしろ、感覚に馴染む。ただその中に、ザハークとは関係のない単語が交じる。
「イブレスが……」
「巫女の仕業……」
――何だってんだ?
良からぬ疑いがあるとは、サリハから聞いている。それがなぜ、ザハークとセットで語られるのか。
大声で問うたところで、誰も答えまい。疑問を携え、一軒の扉を叩く。
「腹が減ったんだ、飯を食えるか?」
ジョッキの描かれた看板は、ラエトに紹介された酒場だ。問いかけても返事はなく、物音もない。
しかしザハークの眼には扉越しに、聞き耳を立てる男の体温が見える。
「居るんだろ、分かってるんだぜ」
「――勘弁しておくれよ、厳戒令の中なんだ。あんたを招いたことが知れたら、こっちが罰を受ける」
何度か繰り返すと、仕方なしという空気で声が返る。
王室御用達とやらのこの店が、温かく応じてくれるとは考えていなかった。返答さえしてくれれば、それでいい。
「そうか、なら無理は言えねえな。俺はこのまま街を出る、世話になったな」
「街を、すぐにかい?」
「いや、そうだな。貧民街の連中とも縁があった。あっちに顔を出して、その後だ」
関わりたくないという色の濃かった相手が、急に身の振り方を心配してくれた。ありがたい話だ。顔には笑みが溢れているだろうに。
会話を打ち切り、足を南東へ向けた。丘を巻く細い道をジグザグに下りていく。
「飯が食えるか?」
また別の戸口で、同じ問いを向ける。今度は本命だ、腹が減っているのも嘘でない。セルギンの紹介した飯屋がどういう態度をするのか、たしかめておかねばならない。
それにしても、いったいどれだけの時間を眠っていたのだろう。陽はまだ午前の早い位置にある。
「留守か?」
扉の向こうに体温は見えなかった。声をかける背中に、兵士の視線が注がれる。外出禁止のはずだが、なぜか呼び止められることがない。
――チッ、腹の虫は我慢させるか。
諦めるつもりで、辺りを見回した。すると視界の端に、動く気配がある。
同じ建物の板窓が僅かに開き、這い出た手が方向を指示した。
「くそっ、諦めるか」
兵士に聞こえたかはどうでも良かった。あからさまに届く声では、演技だとばれてしまう。
当てが外れて、悪態を吐きながら立ち去る。そういう演出をするには、実際にやってみるのがいい。
見える範囲に、兵士は二人。その両方から死角となる路地へ、拗ねた歩みで踏み入る。
――あそこか。
まだ開いていない勝手口。腕の出てくるのが、体温で見えた。待ち構え、開いた瞬間に中へ滑り込んだ。
「悪いな、三日も食ってない気分なんだ」
「いいんですよ、あの子が連れてきた人なんだから」
「そうかい」
店主の妻が言う「あの子」とは、もちろんセルギンのことだろう。
この夫妻との年齢差は、許容範囲というところか。だが親子ではあるまい。あの銀細工師は三年前にやって来たと聞いた。
「どうも寝過ごしたらしいんだが、どれくらいか聞いてるか?」
前に座ったのと同じ席へ通された。店主は既に、火を熾している。その妻は甘い果物の香りを、カップに注いで出してくれた。
「きっと一日だけですよ」
腹時計は当てにならなかった。普段はどれだけ熟睡していても、思った通りの時分に目を覚ませるのだが。
まあまあ、それは重要でない。どれだけ経ったのかだけが知れれば。
「へえ。奴が最後に来たのは?」
テーブルの対面を、指先で叩いて問う。妻はその席に小さくため息を漏らし、「前に一緒だったときですよ」と答えた。
「そいつは危ねえな」
「ええ……」
ままあることだ。何が起こっているか事実だけがあって、まるで裏の知れないのは。誰に何を聞こうとも、どれが真実なのか判別する方法はなくなってしまう。
こんなときザハークは、ただ直感に頼った。
それに依れば、この妻は信じられる。息子でもない無法者を庇い、その連れを無条件に手厚くするお人好しだ。
「何が起きてんのか教えちゃくれねえか。知っての通り、下手を打ったばかりだがな」
「黄昏の巫女の手引きと噂になっています」
「イブレスが? どんな噂だ」
店主の妻の言うところは、飛盗を呼び寄せたのがイブレスということだった。
重要な宝物を横流しした件を、ごまかしきれない。だから罪を、踊り手だけに着せようとした。
それを特等の賞金稼ぎが返り討ちにすれば、話が簡単だったものを。期待外れもいいところだ、と。
「なるほどねえ、一応は筋が通ってるか」
「一応と言うと?」
「サリハ。巫女の踊り手がやったんだとして、巫女本人が関わってない証拠にはならねえだろ」
無責任な噂の特徴と言えた。話の解決に都合のいい面だけ辻褄が合って、それ以外に粗が目立つ。
しかし元々横流しの件を、住民たちがどこまで知っていたのか。どうもその部分だけ、突飛な気がした。
「何となくキナ臭えな。ありがとさん」
店主は塩漬けでない、熟成した肉の塊を焼いて出した。僅かな塩味だけでかぶりつくと、臭みのない濃厚な肉汁がうまかった。
――こんな物、苦労して手に入れたんだろうに。
貧しい暮らしの中から、なぜこんな肉が出されたのか。それは聞くまでもない。
無言の依頼。その報酬として、十分だ。
「安心しなよ。悪いようにはしねえ」
「あの、それは」
たしかな保証を得ようと、妻は弱気な声を床に落とす。それでも口許に笑みが綻んで、ザハークは視線を逸らしたくなった。
同じく薄っすら笑う店主は、厨房からのそのそと出てくる。黙したまま、妻の肩を抱いた。
「だから、任せなって」
無言の頼みに、無粋な返答は出来ない。店主に向け、拳を握って見せる。
すると夫妻は、揃って両目を閉じた。一つ大きく深呼吸をして、頷く。歪に上向こうとする口角を、必死に押さえつけながら。
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