第32話:温かき黒猫
――光、か。
ザハークの閉じた瞼に、僅かながらも光が感じられた。どこか平らな所へ寝そべっている。
どうやら死に損なったらしいと理解して、胸に溜まった重い空気を吐き出す。
「ふうぅぅ、重いな――」
死に至る毒や病から立ち直った後のように、もやもやとはっきりしない。身体が重いとは誰しも感じるだろうが、それとは別の感覚があった。
縛られているかとも思ったが、どうも違う。重いと言っても苦になるほどでない。大きな猫でも抱いているような、そういう温かさが押し付けられている。
「あの……」
「ん?」
猫が喋った。
やはり感覚が麻痺していたのは、間違いないようだ。急速に戻りつつあるが、これほど密着した相手にも気づかないとは。
どうやら踊り子の服を好む黒猫らしい。
「サリハか」
「あの、重くて申しわけありません」
「ああ、いや。ロープにしては重いと思っただけだ。猫とは思わなかった」
「猫?」
勘違いの元は、未だ眼を開けていないことだ。異変のある様子はなく、至って普通に、いつもやっている通りに、瞼を上げればいい。
それがどうにも、怖いと感じた。
――馬鹿馬鹿しい、何も見えねえほうが怖いに決まってる。
気を失う直前の、わけの分からない恐怖を覚えている。きっとその欠片が、まだ影響を残しているのだ。
「ふうっ!」
荒々しく息を吐いて、眼を見開いた。
やはり景色は、どうというもことない。城に充てがわれた、牢獄めいた部屋の中だ。
「あの。やはり重いのでしたら、すぐに降りますが」
「いや、問題な……」
そういえばサリハは、どうして上に乗っているのだろう。彼女に眼を向けて、驚いた。
「あんた、何で裸なんだ」
サリハだけでない。ザハークも衣服を纏っていないようだ。ほとんどは毛布に隠れて見えないが、意識すれば素肌の触れ合っているのがよく分かる。
「申しわけありません」
顎の下から見上げるサリハが、視線を伏せた。何を謝られているのか、見当もつかない。
まさかあの恐怖を演出したのが、彼女でもあるまいに。
「よく分からんが、俺はどうなった」
「ザハークさまは、竜もろとも地面に落ちました。でもあの子が懸命に羽ばたいたので、怪我はないようです」
「ダージは?」
ザハークと同じく恐怖に支配され、飛べなくなったのだろう。それでもダージは相棒を守ってくれた。ならば今、傍に居ない理由が気になった。
サリハは指を上に向けて答える。
「元気に飛んでいます。最初は騒いでいましたが、私に任せてくれるよう頼みました」
「ダージがあんたを信用したのか」
「信じてもらえたようですね」
ザハークに何ごともなければ、竜笛の届く範囲で好きに遊んでいるはずだ。それが城から離れないとなると、相当に心配をしている。
そんなダージからザハークを引き離すなど、それだけで何人も死んでいておかしくない。竜にとって家族や友は、自身の命よりも大切なものなのだから。
「それだけ危なかったんだろうが、あんたの格好の説明にはなってないな」
「それは、申しわけありません――」
「謝られてもさっぱり分からん。責めるなら事情を聞いて、きっちり責めてやる。安心しろ」
サリハがザハークに害を為した形跡はない。だから何を言われても責める気もない。きちんと物を考えられると証明したつもりだったが、妙な言い回しになってしまった。
「実はザハークさまは」
「俺は?」
「闇の炎を受けました」
闇の炎と声を発するとき、サリハは俯けていた視線をこちらに合わせた。うるうると揺れる瞳に、何か決意めいたものが見える。
「あれが、か。どうも柄にもねえ気持ちになったが」
「そうです。私は受けたことがないので分かりませんが、この世のものでない恐怖と凍えを感じるのだとか」
「凍え、ね」
だから裸で温めたらしい。つまりサリハは恩人で、責める理由は何もない。
「吹雪の魔法のような、冷気によるものではありません。心を凍えさせ、結果として身体も震え始めると聞いています」
「そいつは恐ろしい物があるもんだ、使われたら為す術がねえ」
正直な感想を言っただけだったが、サリハはまた謝罪を口にする。繰り返し、ザハークの胸へ額を押し付けるようにして。
「責めやしねえ。そんな怖え物を、何で運んでるのか。それさえ教えてくれたらな」
「どうしてそれを」
飛盗の頭に聞いたとは、さすがに察せまい。サリハは心底驚いた声を発し、目を見開いた。意外にくるくると表情の変わる女だ。
「鼠に聞いたのさ」
「そんなことが出来るのですね」
ごまかしにもなっていない冗談を、感心して頷く。どうも真面目が過ぎて、からかうほうが疲れるタイプらしい。
「あれは、私が作った物です。黄昏の巫女と、巫女の踊り手。その役目は闇の炎を作り、光の泉へ注ぐこと。直接に闇の炎を浴びた者は、心に夜を迎えるのだとか」
「恐怖と寒さが夜か」
そんな物があってたまるか、とは思わない。これまで歩んできた道に、そう言いたくなる物はいくらでもあった。
今回だけがあり得ないなどと、どうして言えよう。もちろんサリハの嘘かもしれないが、それは終いまで聞いてみねば分からない。
「運んでいたのは私の作った物です。それがザハークさまを、あわや死ぬ羽目に」
「ザハークだ」
「ザハークさま?」
敬称など付けてもらえる身分でない。いや仮にそうであったとして、自分には似合わない。
似合いたくない。のが正確な心情だが、そうはっきり定義するのもおこがましい。
「ザハーク」
「……ザハーク」
「そうだ、言えるじゃねえか」
見つめる瞳の下に、火照りが広がっていく。また、さっと顔を伏せたのは先と理由が同じだろうか。
「あわやと言ったって、死んでねえ。飛盗どもは俺の命になんか興味がなかったらしいな」
「ええ、闇の炎を残らず奪って去りました。兵の皆さんにも、死人は居ません」
毛布を顔に巻き、もごもごと喋る。幼子のようで可愛らしく、頭を撫でてやった。
「なら、いいじゃねえか。だいいちそれであんたのせいなら、武器作りの鍛冶屋はみんな殺人鬼だ」
「それは」
「それはそうなんだよ」
どんな危険な物も、必要があるから作られるのだ。それが良くない結果をもたらしたとて、その物が考えたのではない。
いつも悪さをするのは、獣人も含めた人という種だ。
「ですが」
「まだ何かあんのか」
「公爵さまが」
「あのおっさんが? 暇の潰し方なら、兄貴に聞けと言っとけ」
笑わせようとしたが、やはり通じない。笑いのセンスに自信はないが、同情の笑みくらい買えると思ったのに。
サリハは顔を上げ、苦い薬を飲む様相で話す。
「ザハークさま。いえザハークが目を覚ましたら、城から追い出せと。失望したと」
「サリハに言付けたのか。あのおっさんの節約も、いよいよ害悪だな」
小さな用事でも、違えれば反乱の意図ありと難癖は付けられる。ここは逆らわず、静かに退出せねばなるまい。
「分かった、俺は出ていく」
「ザハーク……」
そっと、黒猫を下ろしてベッドから出る。すぐにサリハも起き上がったが、自身の格好を思い出したらしい。毛布に包まって腕だけを伸ばした。
テーブルに畳まれていた衣服を着込み、短刀と飛空帽を携える。竜笛は首にかかったままだ。
「毒蟲のメニュー、考えたんだろうな」
部屋を出る際になって、振り返りに問う。サリハは一瞬、何のことかと表情を見失った。
が、すぐに気づいて笑む。無理に作った、苦しそうなものであったが。
「まだです。忘れていなかったんですね」
「当たり前だ」
部屋を出て、扉を閉める。するとそこに、見張りの兵士が立っていた。ザハークの肩越しに部屋を覗く素振りを見せたが、もちろん見通せはしない。
「おい、公爵に言っとけ。ザハークは間違いなく城を出ていく」
「は、はあ」
闇の炎のことは知らぬのだろう。敗者が何を強気にするのか、そういう思いが透けて見える。
「サリハに何かあったら、お前と公爵を殺す。覚えとけ」
「えっ、いや。それは」
歩き去る蛇人と、閉じられた扉と。兵士は両者を見比べ、戸惑った。ザハークが聞いてやることは、当然にない。
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