第30話:死は目の前に

 乗り手の長衣には、遠目にも黒染みが目立つ。酸化した銀を拭いたとき独特の、緑がかった汚れ。顔は飛空帽で見えない。手には突撃槍。


「手加減はしなくていいんだろうな?」

「キュッ」


 呟き、突く姿勢に槍を抱える。騎士道を気取る気はない、相手の得意を圧し折ることが劣勢を覆す最良の方法だ。

 相手の穂先を下から弾き、把持する肩か腕を突く。それを可能にするだけの筋力がザハークにはある。


「覚悟しろよセルギン!」

「来い!」


 彼我の距離が、みるみる縮まっていく。飛空帽の増幅した声ならば、優に届く。視界が狭まり、他の巨鳥は見えなくなった。どうせこの一撃が終わるまでは、他の何も考えるべきでない。

 透明だった風に、色がつく。白と言えば白だが、その背景と溶け合い、どうとも表現し難い色となる。相棒だけが見せてくれるこの世界が、ザハークは好きだ。

 残り十メルテ。一拍の後には、どちらかが鞍から落ちる。予想通りなら、それはザハークでない。

 しかし予想にない動きが、セルギンにあった。


失速ハーリフ!」


 暗い影の見えた気がする。咄嗟に相棒の首すじを叩き、身体一つ分を落下させた。頭上と真下をすれ違い、距離を取る。


 ――今、何をしようとした?

 突撃槍の極意は、人馬一体となることだ。実際は巨鳥だが、乗り手と騎獣とが一つの塊のように突進する。

 ときどき威力を増そうとして身体を捻る者も居るが、それでは逆に武器を殺してしまう。

 セルギンは槍を持つ右手を引いた。溜めを作ったのとも違う。引いてまた突き出すには遅すぎるし、それほど稚拙なこともすまい。


 ――左手に何か持ってるのか。

 思いつくのは、それしかなかった。槍で突き合うと見せかけて、すれ違いざま何かを投げつける。

 一歩間違えば、自分がただ突き殺されるだけの奸計だ。見合うと言えば、その一瞬でこちらを死なす何か。


「毒、か?」


 刃先から体内に送り込むならともかく、投げつけるだけで死に至らしめる。そんな毒は聞いたことがない。

 何であれ、それだけ本気ということだ。確実に勝てる相手だけを狙う、追い剥ぎのやり口ではない。


「チッ。接近戦が出来ないとなると、ダージの炎しか武器がねえな」


 裏切り者が誰か。ここまでやる真意は何か。問うにはセルギンを生け捕る必要があった。

 だがグズグズしていては、荷車を守る兵士たちも持たない。


「仕方ねえ。短い付き合いだったな、セルギン」


 顔を見合わせて飯を食った男を殺すのには、少し抵抗がある。

 ――ほんの少し、な。


 大きく旋回し、正面にグレーの巨鳥を迎える。地面から五十メルテは、かなり低い。

 セルギンは後ろに、赤と緑の巨鳥を従える。得物は弓らしい、高度を変えても追撃する構えだ。

 余計な被害を出さぬ為には、距離を詰めたかった。だが囲む十二羽が三羽ずつ、次々に襲い掛かる。


「くそ、よく躾けられてやがるぜ!」


 最高速で舞い降り、槍を振って翔け抜ける。どこを狙うでもなく、ザハークの近くを刃が通れば良いという格好で。

 あちらとすれば、当たれば目っけものというところだろうが。こちらは当たる軌道を見極めて避けねばならない。

 それが延々、いつまでともなく繰り返される。この国の兵士千人を相手取るより、この十二羽のほうがよほど難敵と思えた。


「くっ、やべえ――!」


 接近し過ぎた一人を切り捨てたとき、グレーの巨鳥が太陽を背にした。ザハークからは見上げる位置で、波状攻撃の最中ではじっと注視していられない。

 青と緑の巨鳥を引き連れ、真っ直ぐに突っ込んでくる。間違いなくこの状況が、セルギンの立てた作戦の佳境だろう。


「ダージ。構わねえ、焼き尽くせ!」

「キュウッ!」


 これを凌げば何とかなる。目前の十一羽はザハークの槍で応じ、セルギンと後続はダージに任せることにした。


「てめえらあの世に、美味い物なんか無いんだぜ!」


 なぜ死に急ぐのか。どんな理由があると言うのか。視線の向きは違っても、同じ堅気でない者同士。わけも分からずに命を奪いたくはなかった。

 一人、また一人。既に三人を切った。当然に地面へ落下し、まだまだこの高さなら即死は免れない。


炎をラハブ!」


 声と共に手綱を引く。グレーの巨鳥の嘴が、槍の届くぎりぎりにある。


「何っ!?」


 セルギンは手綱をいっぱいに引き、上昇へ転じた。視界の全てが巨鳥の腹で覆われ、通り過ぎた尻尾をダージの炎が焼く。

 空いた空間に、また巨鳥があった。乗り手の弓には、既に矢がない。放たれた矢は、おそらくザハークへ突き進んでいただろう。

 矢の存在した空間ごと。赤い巨鳥と乗り手、その後ろの緑の巨鳥と乗り手。たくさんの色が、ダージの口腔から迸る白に食い尽くされる。

 肉を焼く香ばしささえ残さず、二羽と二人は消滅した。


「セルギン!」


 炎が止むと同時に突っ込んだ巨鳥を切り、上空へ逃げた男を睨みつける。仲間を置き去りに、どうしたかったのか。悪党には悪党の正義があるだろうに。

 と。

 世界が夜に沈んだ。

 暗い。何も見えない。

 いや、おかしい。闇はともかく、飛盗や巨鳥たちの体温さえ見えなくなった。


 ――目潰しか?

 痛みはないが、視覚そのものを奪われたと考えるのが合理的だ。

 その上、落ちている。風が下から上へ、加速していく。ダージが羽ばたくのをやめ、いつも力強く張る肉体が、糸の切れたようにだらんとした。

 怖い。久しく得たことのない感情がザハークを襲う。


 ――何でだ? 何で俺は、ここに居るんだ? 怖い。死なせてくれ、早く!

 死を恐れてではなかった。では何にと自問しても、理由が見つからない。むしろ死にたいと願い、自分の存在を許せないと思った。

 この感情もおかしいと思いながら、湧き立つのを抑えられない。


 ――あの矢だ。

 ダージの焼いた矢に、何か括り付けられていた。その何かが竜の炎にも負けず、ザハークに害を及ぼした。そうでもなければ、こんな不可思議な気持ちになる理由が分からない。

 異変を察する正気と、理由のない恐怖と。交互に訪れる波に揉まれ、ザハークの意識は閉じた。

 

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