第15話:双子の女神
◆ ◆ ◆
昔。
人間の一生を幾つ積み重ねれば辿れるのか、想像もつかぬほどの昔。そのころ神々は地上に在り、人間とも似た肉体を持っていた。
「ねえ、お母さま。この赤い花も、あの青い鳥も、お父さまがお創りになったのよね?」
「そうですよミトラ。あなたの踏む土、あなたの食べる肉や魚、あなたの嗅ぐ花の香、あなたの聴く鳥の声。目に映る景色の何もかもを、お父さまが創られたの」
緑の豊かな山に、ある姉妹が母親と三人で暮らした。
子の一人はミトラと言い、双子の姉。大きな布をすっぽりと、足先まで被ったような白い衣服をいつも羽織った。
肌も髪も水で拵えたように柔らかく透き通り、その場にあるどんな色も映す。
「ゲノシス。今日は川で水浴びをしない?」
「水浴び」
「そう、今日は暑いでしょう? きっとそうする為に、お父さまが創られたのよ」
コクンと頷くのは、妹のゲノシス。活発な姉に対し妹は寡黙で、黒い衣服を羽織った。
肌も髪も、全て姉と同じ造作。性格は違うものの、二人はこの上なく仲が良かった。
父親はあらゆる神々を取り纏める主神で、この世界を創った主でもある。数え切れぬほど持つ妻の一人に人間を選び、この双子が生まれた。
永遠の命を持つ神だが、このときの二人はまだ、生まれて十五年しか数えていない。
「ほら! ほら! ゲノシスも水を掬ってみなさい!」
「冷たい」
「ええ、冷たくて気持ちがいいわ!」
他愛のない、変化に乏しい毎日。それでも双子は、互いと母が居れば楽しく過ごせた。ずっとこのまま、変わりなければいいと思っていた。
「お父さまは、次にいつ来てくださるかしら」
「いつ?」
「そうね、そろそろ二人にも神の仕事を任せたいと仰っていたから。
姉妹はいつか、父の司る仕事の一つを引き継ぐと決まっていた。神の子から神へ昇華する日を、神昇りと呼ぶ。
「それはいつ?」
「いつ?」
「お父さまの決められることだから、お母さんには分からないわ」
足下に大地があり、草木が生え、風が吹き、獣が駆け、陽と月が天を巡る。森羅万象は父の働きで、やるべき仕事は数限りない。
おかげで自分たちも、人間も、毎日同じ景色を見ることが出来る。だから双子は、ほとんど会ったこともない父親を尊敬していた。
その仕事のどれか、たった一つだけでも。受け継ぐことの出来る自分たちを、誇りに思った。
「その日にお父さまを失望させないよう、練習しておかなきゃね」
「練習する」
二人は毎日、神殿の裏にある泉に通う。神力を高める為に。二人の預けられたものが、この世から溢れ、あるいは消えてしまわぬように。
「いい、ゲノシス。あなたは闇なの。何もかもが静かに、止まってしまう場所。生き物の感情や、光でさえもね」
「ミトラは光。何もかも動き出す。闇をも切り裂く」
聖霊の泉と、父親から聞いている。姉妹がどんなことをしても、この泉に向けてなら問題ない。
「お父さまの回す陽。その熱さを、眩しさを私は真似る。暖かな風が、誰も安らげるように」
ミトラは渾身の力を以て、煌めく光を放つ。ただ澄んだ水としか見えぬ泉が、どこまでも光を吸い取っていく。
神昇りまでに、泉を光で満たせるようにせねばならなかった。
「お父さまの拵えた夜。鎮める空気、静かに覆う帳を、私は真似る。穏やかな眠りが、誰も安らげるように」
ゲノシスは渾身の力を以て、己の神力を薄く拡げた。世界のこちらとあちらを一分の隙間もなく庇うには、泉を闇に沈めねばならなかった。
二人は熱心に、真摯に、鍛錬を重ねた。合間に姉妹で遊び、母と触れ合い、幸福に過ごした。
「ねえゲノシス。やってみたいことがあるの」
「何」
同じことの繰り返しを、飽きはしない。女神となった後は永遠に、途切れず続けねばならないのだ。
だがそれでも、大好きな姉妹の互いがやることに興味があった。どちらが羨ましいと言うのでなく、愛する妹の、最も近い存在の姉がやることを体験したかった。
「今日の練習は、取り替えっこしない?」
「取り替え?」
「そう。ゲノシスが光を、私が闇を拵えるの。いつもと反対をやってみれば、何か発見があるかもしれないわ」
「うん、やる」
二つ返事の妹は、姉に言われて黒い衣服を脱ぐ。代わりに姉の、白い衣服を着る。ふかふかと温かく、干し草に包まれた気分になった。
姉は白い衣服を脱ぎ、妹の黒い衣服を着る。しっとりと涼やかで、そよ風に巻かれた気分になった。
父親からの言いつけを、ほんの一時でも破ることに変わりはない。けれども好奇心には勝てず。もしも見つかったとき、言いわけの為の入れ替わりだった。
「じゃあ私からね。ゲノシスみたいに細やかな調整が出来ないから、上手くなりたいわ」
ミトラは初めて、己の中に闇を創る。
そもそも闇とは何か。ただ光の届かぬ場所でなく、疲れた心と体を安らげる空間だ。だから生きる物を励ます為の神力を、薄く広げて庇わねばならない。
母と三人、パイを作る要領で。林檎の皮を長く繋げ、妹と競ったときの遊び心で。
「ミトラ、すごい。泉が闇に……」
蚕が糸を吐くがごとく。絹よりも薄い、闇が織り上げられていった。
とめどなく、澱みなく、愛しい妹の仕事を汚してはならぬ。その想いで、必死に紡ぎあげた。
やがて泉は。覗いても底の見えない澄んだ水は、夜へと変わった。これが水浴び場だとすれば、二十人ほどでいっぱいになる僅かな範囲。たったそれだけだが、父の創った夜と寸分違わぬ。
任された自分に成しえなかったことを、姉はやってのけた。ゲノシスはそれを、惜しみない賛辞で讃える。
「凄い。これならミトラが任されてもいいくらい」
「はあ、はあ。そんな、ことない。もうしばらく、まともに息も出来ないわ」
神力の放出をやめ、ミトラは尻もちをついた。天を仰ぎ、息も絶え絶えに。
そこまでやっても、神力の注がれなくなった泉は、あっという間に元の姿に戻ってしまった。
「今度は私。ミトラのように力強く、怖じ気づくことのないように」
ゲノシスの神力は姉に劣るものでない。元は全く同じ存在として父が創ったのだ、変わるわけがない。しかし自分などが、父の偉業を引き継げるのか。根拠のない不安に、いつも囚われていた。
それを今は、あくまでも戯れ。ちょっと試しにやってみるだけと、気持ちを緩く持てた。
優しく明るい姉のように。命を守る、温かな神の手が光だ。それは妹の腹の奥にもあった。何者も育む慈しみを、ゲノシスは全力で解き放つ。
「ゲノシス、眩しい! 凄い、お父さまがそこに居るようよ!」
その一瞬、景色が白の一色に染まった。膨大な神力の破裂を、ゲノシスも測りそこねていた。
だがすぐに、岩をも溶かす竜を倣った。熱く、熱く、熱く。ただし竜の吐息と違って、破壊が目的でない。適度な量を見定め、常に神力を同じに保つ。
父と同じくらい尊敬する姉の仕事を、貶めてはならぬ。その一心で、懸命に神力を振り絞る。
やがて泉は、大地を貫く光の柱となった。きっとこの底に、父の創った陽が落ちている。そう言われても、誰も疑わなかったに違いない。
「素晴らしいわ、ゲノシス、私よりも凄い光だった。あなたのほうが向いているのかもしれない」
「もう無理……」
神力の流出を閉じ、ゲノシスは四肢を地面に突いた。自分の身体が抜け殻になったかと思う。汗さえ引いて、寒気を感じた。
ずっと続けてきたことを、妹はいとも簡単に成し遂げた。ミトラは才能に溢れるゲノシスを誇りに感じ、同時に嫉妬する。褒め言葉にも、多少の棘が混じった。
「娘たちよ、よくぞ神の域へ達した」
その時だ。疲労に倒れたままの姉妹に、天上から雄大な声が注がれる。
「お父さま――」
普段は主神を前に、立ち上がり目を背けない。けれども今は、そうする神力が残っていない。
「良い。お前たちはまだ、神の見習いなのだ。本物の神となれば、疲れを感じることなどなくなってしまう。その感触を、貴重な物として覚えておくがいい」
「お父さま、違う――」
ミトラは懸命に訴えようとした。姉妹は役目を取り替え、戯れていただけだと。上手く出来たのは偶然で、評価に値しないと。
ゲノシスは限界を超え、未だ口が聞けない。神力を尽きさせたのだとしたら、どうなってしまうのだろう。妹の存在が縮んでいくのを、ミトラは意識の表面に感じた。
「お父さま、神力が!」
何はともあれ、ゲノシスの意識をしっかりさせるのが先決だ。神々の頂点に君臨する父親ならば、いとも簡単に違いない。
「うむ、問題ない」
期待通り、父親は二つ返事に請け負った。しかし、その先が思惑と異なる。
「直ちに神昇りを執り行おう。我が娘たちよ、姉妹の女神として仲睦まじく、世界を見守り続けるのだ」
「お父さまっ!」
訂正の機会は、永遠に失われた。父親の放つ神力が、空間そのものを揺らして伝わる。大気と大地とが同時に震え、それでもなお森の獣たちは騒がない。
「顕現せよ、光の女神ミトラ!」
逞しい父の腕が、白い衣服の娘に向けられた。それは姉と入れ替わった、ゲノシスであるのに。
「顕現せよ、闇の女神ゲノシス!」
反対の腕が、黒い衣服の娘に向けられた。それは妹と入れ替わった、ミトラであるのに。
二人は雷に打たれたような衝撃を感じ、意識を失った。ただそれは、ほんの一瞬。神の子という仮初めの存在から、神へと肉体が入れ替わる反動。
見た目に何ら変わりなくとも、姉妹はその刹那から女神となった。
「うむ、滞りない。では励めよ」
父親はまた、己の次の仕事へと向かう。神の首長に、立ち止まる暇はないと自嘲して。
だが、姉妹の運命はそれで収まらない。
「ゲノシス」
「ミトラ」
どちらがどちらを呼んだのか、朦朧としていた。それぞれ自分が、今までどちらであったのかも曖昧なほど。
「どうであれ、お父さまのなさったこと」
「ええ、そうね」
主神の決定に逆らうなど、思いもよらぬ。二人は新たに定められた道すじを受け入れようとした。
しかし、姉妹も知らなかった。
双子の身体は全く同じになるよう、父親の拵えたもの。ただしミトラの身体には、光の女神としての。ゲノシスの身体には、闇の女神としての。
それぞれの定めに見合った色に、神力は染められていた。
「ミトラ、これは何?」
「ゲノシス、身体が!」
相容れぬ力を発現させた女神は、肉体を弾けさせた。それでも神が滅びることはなく、神力だけとなっても、おそらく人の目に区別はつかない。
「神力の制御が!」
「暴走するわ!」
水門のバルブが壊れたようだった。自分の身体が溶け、世界へ流れ出す感覚。
生まれて初めて、恐怖を覚えた。姉を、妹を、互いを失う怖れ。自分たちのせいで、世界から光と闇が失われる怖れ。
「ミトラ、泉へ!」
「ゲノシス、泉へ!」
二人は抱き合い、聖霊の泉へ飛び込む。どんなことをしても、この泉にならば問題ない。父親の保証した場所へ。
それがおかげだったろう。二人はそれ以上、狂える存在にはならなかった。どうにか自我を保ち、泉に漂った。
「ごめんね。私が入れ替わろうなんて言わなければ良かった」
「私も楽しんだわ」
姉だったゲノシスは、罪を憂う。妹だったミトラが慰めても、その意識は取り払われない。
「このまま二人で、泉に暮らしましょう」
「そんなこと許されないわ」
抱き合う二人の心に、亀裂が生じる。妬みと罪に姉は沈み、文字通り上向く意気に妹は浮かんでいった。
ミトラの繋ごうとする手を、ゲノシスは払う。妹は光の速さで昇り、姉は膨張する闇の勢いで下る。
どこまでも、どこまでも。泉の上と下で、姉妹は離れ続けた。
二つの神力の反発する衝撃に、音を上げたのは大地。雷轟にも似た地響きを伴い、硬い岩盤が引き剥がされる。
緑豊かな山の部分は支えもなく宙へ浮かんでいく。地上に残った岩盤は、光の射さぬ凍えた土地に。
最も近い二人。同時に女神となる為に生まれた姉妹は、こうして永遠に出逢うことがなくなった。
◇ ◇ ◇
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