第11話:冒された土地
「あんたの家か」
およそ中央に位置する幕を、サリハは捲った。周囲に比べ、それだけが大きい。柱の丈は、ザハークの二倍ほどもある。
「この村に、自分の家という概念はありません。強いて言うなら、村の全てがそうです。よく居る場所ではありますけどね」
「イブレスも?」
「イブレスさまと護衛のトゥリヤだけは、泉の向こうのほら穴に寝起きしていますね。私たちは巫女の祠と呼んでいます」
言って、するりと身をくぐらせる。ほとんど音がなく、鍛えれば優れた盗賊になれそうだ。
着いて入ろうとすると、苦しげな吐息が数人分聞こえた。ろくに眠ることも出来ない、病人に特有の。
――罠。なんて、あるわけねえか。
未熟な暗殺者の吐息では。身体が勝手に反応して、身構えようとする。けれど、この村にある家は布ばかり。ザハークの眼に、怪しく潜む者の居ないことは明白だった。
「眠れないの?」
「ああ、サリハさま……城へお泊りのはずでは」
中には三人が寝かされていた。地面に厚手の布が敷かれ、腹にも同じ布がかけられる。衣服は薄い布を前後に縫い合わせただけの、粗末な物。
幕には他に、水瓶と桶が一つずつ。帳面を置くのがやっとの、小さなテーブル。それで余分な隙間はない。
「ちょっとね。またすぐに戻ります」
奥が別の小さな幕と繋がり、サリハは入って行く。そこへも女性らしき体温が見え、物音に目覚めたようだ。しかしすぐには身体を起こさない。
戻ってきたサリハの手に、小さな壺が握られている。蓋の布を外し、糊状に練った物を指で掬い出した。
それをそのまま、話しかけた男の口へ。男は顎を動かす力も満足にないようで、僅かな量を必死に舐め取る。
「何の病だ」
「――さあ。直接には毒蟲ですが、それ以前にみんな生命を削っています」
「体力がなくて毒蟲を払うことも出来ず、治す元気もない?」
「そういうことのようです」
永遠に陽の射すことのないこんな場所へ住んでいれば、そうもなろう。当たり前だ、と「そりゃあ」まで声に出した。
思わず天を仰いでもみたが、見えるのは地味な色合いに織られた布の目だけ。
「何なら俺が、いい
「ありがとうございます、でもそれは出来ません。この岩山から出る道は、全て王陛下に見張られています」
空から見た景色に、道は一本しかなかった。それはきっと馬車の為に整備されたもので、他にもいくつかあるのだろう。
薄い盆のように、縁を囲んでそそり立つ岩の壁。外界へ抜けることの許されぬ民。この街は上も下も、巨大な牢獄であるらしい。
「ダージに乗ればそんなこと関係ない、ってのは屁理屈になるんだろうな」
「戻って来ないのなら、その人は出られるでしょうね。でも残された人が、どんな目に遭うか」
「……やれやれ、困った王さまだ。でなけりゃこんな村に、好きこのんで住みやしねえわな」
愚痴を言うタイプでないと思い、代わりにはっきりと言ってやった。だがサリハは、困ったように笑ってごまかす。
「サリハさま、すみません。あたしが任せられているのに」
奥の幕から、ふらふらとよろめく足で、中年の女性が出てくる。ようやく起き上がれたらしい。
「おっと、足下に気をつけな」
急ぐ気持ちに足が追いついていない。つんのめって転びそうになったのを、抱きとめてやった。
「ああ恐れ入ります。サリハさまのお客さまにこんな――ひっ!」
「大丈夫よ。顔は怖ろしいけど、悪い人ではないわ。たぶんね」
女性は礼に顔を上げ、ザハークと目が合った途端、身を強張らせた。
横たわった男に水を飲ませつつ、サリハは懇切丁寧なフォローをしてくれる。おかげで女性は、高鳴った胸を押さえながらも平静を装った。
「し、失礼を」
「いつものことだ、気にするな」
女性の背中をトンと叩き、しっかり立たせてやる。するとサリハが「奥に火があります」と言った。
「寒ければ当たってください」
言われなくとも知っている。奥の幕には種火となった炎を挟んで、寝床のスペースが二つあるようだ。
一方を中年の女性が使っているのだから、残りは普段、サリハが使うに違いない。
蛇人は、ある程度までの寒さにとても強い。だから気にしていなかったが、たしかにこの村の付近は息が白くなる。
「いや。あんたは?」
「お水が切れたので、汲んできます」
水瓶にまだ半分以上もあるようなのに、どうしたのか。入り口の脇にあった桶を掴み、サリハは出ていった。
「どうした?」
「さあ。優しいお人なので、思うところが多いんでしょう」
中年の女性は、先ほどより息を穏やかにした男の顔を覗き込む。顔色を覗い、呼気の温度と臭いを感じているようだ。
すぐに顔を顰め、たらいを持ってきた。水を張ると、手拭いを浸して男の首すじを拭いてやる。
「あんたの夫かい?」
「いいえ、あたしは結婚なんて。この人もそっちの二人もね。昔はそういうこともしていたようだけど、今はもうみんなが夫でみんなが妻で。誰もが家族なんですよ」
体力のある者が子を為さねば、村が滅ぶ。だから見境など付けていられない。女性の言葉の裏には、はっきりと現状が示されていた。
何と答えたものか、「へえ、そいつは賑やかだ」と気づかなかったふりをする。女性は自嘲気味に「そうですとも」と答えた。
「どうにかよそへ行くことは、出来ないもんかな。試した奴は居なかったのか」
「居たみたいですよ。だから見張りが厳重になったんでしょう。でもほとんどみんな、そんなこと望んじゃいないんです」
全滅を目の前に、逃亡を望まない。女性の答えがそう聞こえたのは、勘違いだろうか。監視がある為に、仕方なく居るわけでない。そんなことがあるものか。
「その皿は?」
調子の良いときには、固形物を食べられたらしい。男の頭の上に皿がある。女性は手に取って、「これが何か?」と見せてくれた。
「こいつは――」
「知りませんか? 腐木の幼虫です」
そういう名の虫が居るわけでなく、柔らかい立木や倒木に棲み着く芋虫全般のことだ。
皿にあるのも、大きさの違うのが三匹。乾燥させているらしく、干からびてなお親指ほどもある。
「他には何を食う?」
「苔とか、シダの茎や根とか。ああ、泉の水棲虫は美味しいですよ」
「そりゃ珍しい。食ってみたいもんだが、あんたらの分がなくなっちまうな」
「ですねえ、すみません」
比べ物にならぬほど美味い物は、世の中にいくらでもある。
きっとこの女性は、その事実を知っている。なぜなら食ってみたいと言ったザハークに、これ以上ないほどの軽蔑の目を向けた。
「ここは、いい村なんですわ――」
声は潜めていたつもりだが、起こしてしまったろう。女性が見ているのとは別の男が、唐突に話し始める。
上体を起こそうと、僅か浮かせるのが限界で諦める体力で。
「食う物はある。毒蟲だって、刺されんようすれば美味いもんだ。寒いのは、シダの葉を巻けばいい。そうやって爺さんも、そのまた爺さんも村を守ってきた」
「だからあんたらも、ここに居続けるのか」
ザハークには故郷がない。親の顔も知らない。ここが自分の家で帰る場所だ、などというものを持ったことがない。
いかにも年寄りな、しわがれた声の言い分が理解できなかった。
「若い人には分からんだろうね、だから順番なんだよ。いくら気をつけても、いつか毒に冒される。一度や二度で、ここまでにはならんからね。十分生きたと思えるころ、こうやって動けなくなる。うまいこと出来てると思うよ」
「十分に生きた? あんた、何歳だ」
若い者が年寄りに化けても、すぐに分かる。じっくり観察すれば、血液の体温を送るさまが違うからだ。
若い者は熱く、勢いがある。年寄りは温く、静かに伝うだけのように見えた。
そこに横たわる男は、少なくとも年寄りでない。病にあってなお、そうなのだ。推測するには四十にも至っていまい。
「言うほどの歳でないよ。まあ、今さら出来ることもない。迷惑にならんよう、静かに眠るだけさ」
「出来ることがない? 伏せってちゃそうだろうが、やりたいことくらいあるだろうが。どんなに歳を食ったって、生きるのには目的が要るんだよ」
無茶を言っている自覚はあった。病人に鞭打つ行為だと。
けれども遣る瀬ない。もっと楽しく、もっと楽に。生きるも死ぬも、これだけやってからなら仕方がないと心から言える。生きるとはそうでないのかと、ザハークは考える。
奴隷のように、自分でどうも出来ぬ者は例外としてだ。即ちこの村の人間は、奴隷に見えた。
「やりたいことねえ。そうさな、サリハさまが――」
「サリハが?」
「いや、岩山の向こうを見てみたいね。好きなときに山を越えて、満足したら帰ってくる。そんな暮らしが出来れば、言うことはないよ」
――何だ、あるんじゃねえか。
ここは奴隷の園ではない。ザハークはもう一度、見通すこと叶わぬ頭上を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます