第10話:彼女の村
「美人じゃねえか。どうしてそんな布で顔を隠す?」
「えっ、あっ!」
天を翔けるダージの背で、顔の下半分を隠す布は役に立っていない。サリハは慌てて押さえつけ、鞍から落ちそうになる。それをザハークの手が、しっかりと握りしめた。
「おいおい、手を離すんじゃねえよ。心配するな、俺には見てくれの良し悪しなんぞ分からん」
細い。身軽さを目に見えて示す、細い手首。少し力を増すだけで、簡単に折れてしまいそうだ。
若木の若枝のような指を、ザハークは自身のベルトに誘導する。隙間に挿し込んでさえいれば、落ちることはない。
「ありがとうございます。でもそういう問題では」
「神殿の決まりごとか? それにしては街の連中に一人もそんな格好は居なかったが」
浮遊する島の端に、ダージの鼻先を向けた。海のある方角だが、遠すぎて見えない。
白い岩肌の山地が続き、ザハークの眼を以てしても見渡せぬ、遠い夜闇の先に隣の都市がある。
「いえ私は。イブレスさまは光の神殿に椅子を持ちません、
「じゃあ普段はどこに居る?」
巫女とその連れが、神殿でなく城に寝泊まりするとはおかしな話だ。だから聞いたのだが、そもそもの居場所が違うとサリハは答えた。
「ゲノシスの村です」
「近いのか?」
「この子の翼なら、すぐでしょうね」
空いている左手で、サリハはダージを撫でる。滑空していた翼が一度、バサッと羽ばたく。驚いて息を呑む気配の後、クスと笑いが溢れた。
「どっちだ」
「私たちの村へ? どの方向からでも行けますが」
「どの方向でも?」
よく分からない案内だが、来訪を拒むわけでないらしい。それからすぐに島の端へ到達し、意味が知れた。
「下です」
下と言いつつサリハの指は、後方に向けられた。つまり彼女らの家は、浮遊島の下にある。
緩やかに、二百メルテも行き過ぎつつ旋回していく。眼下に広がるのは、茨の棘を隙間なく並べたような岩の起伏。
それが島の端と重なるところから、
「なるほどなあ。女神さまが地べたを嫌って浮かせたかな」
「よくお分かりですね、神話ではそう伝えられています」
元々は地表にあった山の下を、誰かが切り取った。島の下面と地面の傾斜は、そうとしか思えぬくらい角度を同じくする。
低いところでも二十メルテほど。大人が十人で肩車をしたとて、まだまだ届かぬ高さに島は浮いた。景色として、巨大な岩穴という感がある。当然に横の壁は、どこまで行っても存在しない。
ダージの故郷も岩穴だった。思い出したのか、白い竜は機嫌良さげにすいすいと奥へ進んだ。
「見えますか。あそこに門があります」
地面はいつまでも岩盤でなく、少なくとも表面は土になった。植物は島の上と違い、シダや苔の類がほとんどを占める。
人の背よりも高く茂ったシダの林。その只中に、丸太で組んだ門が場違いに出迎えた。感覚を信じるなら、ちょうど神殿のある真下だ。
「あんた、夜目が利くんだな」
「それはこの土地に住めば自然と」
「そりゃそうか」
考えればすぐに分かることだった。この土地が暗いのは、今が夜であるのと関係がない。頭上を塞ぐ浮遊島があって、その限り陽の光が注ぐことはないのだ。
「入っても?」
「どうぞ。おとなしい人たちばかりです」
「へえ?」
門の直前にダージを着地させ、背から降りた。手を差し出そうと思ったときには、既にサリハも滑り下りている。
おとなしいと聞いて、トゥリヤの顔が浮かぶ。そんな風に見えなかったと考えるのは、失礼に当たるだろうか。
「ダージ、静かにな」
「キュキュ」
「分かってるのは分かってるさ」
二人が門をくぐると、ダージも着いてくる。柵がないので、どんな巨体でも通行に不都合ない。
いつもは長い首を颯爽と掲げて歩く相棒だが、腰を――頭を屈めてそろそろと四本の脚を動かした。
「言葉が通じるんですね」
「どうだろうな。おとぎ話の竜みたいな、叡智なんてのはねえよ」
「そうなんですか。でもあなたも、この子の言いたいことが分かるように見えます。私はそういうの、全然ダメで」
門から数十歩を行くと、林が途切れた。すると彼女らの住居が目に入る。
中央に柱を立て、円錐に布を巻いただけの物。一つや二つでなく、十数個。寄り添うように密集して建てられた。
「いや、さっぱり分からねえ」
「えっ」
足を止め、言い切る。これは本心だ。きっとダージは意味を持った声を発しているのだろうが、聞き分けられない。だから何を言いたいのか、理解も出来ない。
サリハは意外そうに、驚きの声を上げた。こうまできっぱり否定されるとは思わなかったろう。
「ダージの言い分どころか人間も、同じ蛇人の気持ちも俺には分からん」
「それは――」
サリハは自分の両手を、胸に強く抱いた。楽しげだった目にも、哀れみの情が浮く。
「いや、そう悲しそうにするな。そういう意味じゃねえ」
「と言うと?」
「何て言うかな、分からねえほうがいいんだよ。分からねえから、俺のツラを見て悲鳴を上げた奴とも酒が飲める。そいつが『悪かった』と、ひとつ言ってくれさえすればな」
並んで立ったまま、ザハークは目を背けた。人間を嫌いたいわけでない。悪かったと言ってくれる人間に、出会うことがないだけだ。
そんな想いを、うっかり口にしたことが恥ずかしい。
「ああ――そういうことなら分かります。表面を取り繕って、行動にも示してくれるならそれでいい。本心なんて、誰も証明出来ませんよね」
「まあ、な」
ザハーク自身、どう答えるのか正解を設けていなかった。それでもサリハの声は、ダージの背で聞く風音に似た感覚がある。
「あんた、トゥリヤと話が合わねえだろ」
護衛剣士と名乗ったあの女は、決まりごとに忠実と見えた。その対象が黄昏の巫女とやらの規則なのか、イブレスの言いつけなのか不明だが。
「光と闇の女神。この地に伝わる神話に通じるお話でした」
「そうかい」
サリハは関係のなさそうなことを言って、答えなかった。代わりにわざとらしい苦笑を見せつつ、踊り子は住居の一つに向かう。
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