第9話:黒と白の海
たかが一人の所在について、これ以上を揉めても益はない。それぞれが納得したふりで、それぞれの居場所へと帰る。ザハークも与えられた部屋の前まで戻り、真っ直ぐな廊下の先を見つめた。
――何だか夜這いを狙ってる気分だ。
倫理的な良し悪しを置いても、人間にそういう感情を抱いたことはない。たった今も。
階段から五部屋先にサリハ。その向こうの部屋にトゥリヤが入っていくのを見届け、ザハークは廊下を外壁に向かって歩く。
同じ大きさの部屋が五つ並び、どれにも眠る者の気配はなかった。扉の脇へ張り付いてでもいれば分からないが。
「いい窓だ」
ほとんどの人間は、ザハークよりも背が低い。その身長をして、床に足を着けてでは外が見えなかった。頭頂の高さから、上に口が開いているせいだ。
縦横がちょうど、大人を一人通せる広さ。三階という位置が、鎧戸を開けたままにしている。ザハークは軽く指をかけると、窓の縁へ飛び乗った。
「さて、どこまで行ったかな」
首に下げた紐を手繰り、ペンダントにも見える小指の先ほどの白い塊を摘む。それを唇に当てると、ザハークは優しく送り出すように息を吹き込んだ。
目を凝らせば見える微細な穴が、無数に空いている。しかし通り抜けたはずの空気さえ、出てきたように感じられない。音が聞こえるわけでもなく、そういう物だと聞いている。
「――お、近かったな」
やがて、と言っても一杯の茶を飲むくらいの時間。窓へ腰掛けたザハークの眼に、ダージの姿が映った。
白い塊は彼女が幼いころ、最初に生え変わった角だ。竜の親はそれを飲み込み、どれほど遠くに居ても子を呼べると聞く。
これを世に、竜笛と言う。
「キュエェ」
「そうか、楽しかったか。そこらじゅう、飛び回ったんだな」
「キュッ」
差し出した手に、ダージは鼻先を擦りつける。ザハークはおそらく、親と友との間なのだろう。時に甘え、時に励ましてくれる。
「こっちは、ちょっとばかり妙な具合いだ。気晴らしに連れてってくれよ」
「キュゥ?」
「ああ、もう一人居る」
そこまで話すと、ダージは鞍に手が届くよう動いた。先からずっと、絶妙な羽さばきで同じ場所に飛んでいる。
取っ手を掴み、ぐいと引き寄せる要領で飛び乗る。不安定なはずのダージは、そのくらいで微動だにしない。
「そっちだ」
言葉と手綱とで、行く方向を伝える。ほんの数メルテ先と分かるらしく、ダージは犬かきをするように宙を泳いだ。
建物の角を折れ、目的の位置へ。思った通り、こちらの窓はきちんと開け閉めの出来る物だ。閉じた鎧戸を、おもむろに叩く。
「隣に聞こえちまうと面白くねえからな」
深夜。足場のない窓から音がする。人間の婦女子はそれを、どう解釈するのだろうか。
おとぎ話に、窓へ石をぶつけて姫を呼び出す話があった。そういう気持ちで気軽に出てきてくれればいいのだが。
――怪しまれたかな。
もう何度目か、数えるのは忘れていた。夜の散歩へ招待しようと思ったのに、残念なことだ。
諦めようと思ったとき、鎧戸の向こうへ人の体温が見えた。その人物は僅かに隙間を作り、こちらを覗く。動作に合わせ、ちょうどのタイミングで手を上げて見せる。
「……お見通しなのですね」
頬の温度を上げたサリハが、観念して戸を開けた。
怪しげな蛇人の誘いなど、応じるものでない。こそこそと様子を窺って、無視しているほうが当たり前だ。
「ここの空は、星が多すぎる。拾う手が足りんのだが、来てくれるか」
「はあ、星をですか」
誘う口実を考えていなかった。とにかく来いなどと、誘拐めいた言葉はさすがに憚られる。だから目についた星々を言いわけにした。
サリハはきょとんと首を傾げたが、緩やかな風に靡くダージの羽毛へ手を伸ばした。数本が絡まっては解け、くすぐったそうに微笑む。
「来い。俺の後ろに乗れば、触り放題だ」
「良いのですか」
答えたときにはもう、サリハの手が伸ばされていた。手首を掴み、ぐっと引く。
勢い余ったのを、抱きとめようと思った。なまじゆっくりと移動するほうが、体力を使って危険だ。
だが真っ黒な衣装の踊り子は、自分で窓の縁を蹴った。ザハークの腕に自らの腕を滑らせ、ひと息で鞍を跨ぐ。
「これでよろしいですか」
「大変よろしい。後はつま先を、鞍の端に引っ掛けておけ」
乗り手と鞍とを繋ぐ綱などはない。もちろん振り落とすような飛び方をする気はないが、万が一には備えねばならない。
「はい、しっかり乗れました」
「じゃあ星拾いに出かけるとするぜ」
手綱を揺らし、膝を締める。ダージはその合図で、ゆっくりと前進を始める。サリハは初めて乗る竜の背を、懸命に手を伸ばし撫でた。
ゆっくりと、しかし馬など問題にならぬまで速度を増していく。ザハークも飛空帽を被っていないので、それでも限界の半分以下だが。
「速い! 速いです!」
「怖いか!」
「いえ、気持ちがいいのです!」
耳にゴウゴウと風が鳴る。素肌に少し、寒い気がしなくもない。薄着のサリハに長くは無理だろう。そう思い短い時間で、何も邪魔する物のない空を翔け巡った。
大きくくるりと輪を描き、巻いた風を錐揉みで切り裂く。急上昇から急降下し、地面のすれすれを舐めた後に真っ直ぐ頭上を目指す。
「ああ、本当に星が多いな」
「コーダミトラの夜は、他のどこよりも黒いのです」
目の前に広がる星の海が、眩かった。それは合間の黒に、光が映っていないから。星と空の境界が、誰か描き分けたようにくっきりとしている。
――妙な街に妙な空だ。
睨みつけたが、誰のせいでもあるまい。苦笑して、サリハを振り返る。
歳相応にまだ幼さの残る笑顔が、手の平一つの距離にあった。
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