第8話:小心者の踊り子
「何のつもりかと聞いている!」
怒声が聞こえたのは、誰か通り過ぎて間もなく。丸パンを食う暇くらいはあったろう。
おそらく見回りの兵士の声だ。平和ボケした王の下でも、一応は警戒の機能があるらしい。
「退屈させてくれねえなあ」
夜中に騒ぐのが、眠る者には迷惑というくらい知っているはず。それでも大声を出させたのはどんな相手か。
野次馬と言われれば否定できないが、己の周囲をよく知っておくことは重要だ。のそりとベッドを出て、扉を開け放した。
床も壁も天井も石造りの廊下が、左右に長く伸びる。灯りと人影が見えるのは右手。ザハークも使った、城外へ続く階段がある辺りだ。
「あなたが巫女殿の代理で、重要な役目を負うのは知っている。だからとこんな夜更けに、どこへ行くかも言えぬとは。見過ごすわけにいかん!」
こそこそとする必要はなかったが、染み付いた癖が足音を殺してしまう。槍でも剣でも一挙動で首を刎ねられる位置まで近づいても、兵士は気づかない。
「おいおい、何があったってんだ」
「何がって――ひっ!」
軽そうな革鎧の兵士は二人居た。一人が振り向き、目が合った途端に息を詰まらせる。
「人の顔見て、悲鳴たあ随分だな。一応は客のはずなんだが?」
「あ、ああ。ザハーク殿か、すまない」
どんな街へ行っても、人間は蛇人を嫌う。種族同士の争いがあったでもなく、見た目を嫌悪して。
その反応に慣れたザハークには少し驚かれるくらいを、どうとも思わない。しかしこう言って多少なりと、引け目を感じてくれれば話がしやすい。
「サリハ殿が一人で歩いていてな。どこへ行くのか問うても、答えてくれんのだ」
「サリハ?」
何があったか重ねて聞くと、兵士は渋々の様子で答えた。提示された名は初耳だが、この場に該当者は一人しか居ない。兵士たちの詰問する相手だ。
昼間に見た三人のうち最後まで口を聞かなかった若い女が、壁に退路を塞がれた格好で居た。
二十歳前後だろう。袖が短く、臍の見えそうな
「彼女をここで?」
「そうだ。部屋はそこだし、歩くことは構わん。しかし目的を教えてくれんのではな」
怪しむのも当然だろう、と。兵士は言外に同意を求める。その指がさすのは、ザハークの部屋とは反対に伸びる廊下。
サリハを見ると両腕に頭を抱え、強面の男たちがもたらす怒気に怯えている――ように見えた。いかに経験を積んでも、人間の本心だけは判別できない。
「何ごとです?」
眼を向けた廊下の奥から、誰かがやってくる。体温の配置は女。声にも聞き覚えがあった。トゥリヤだ。
「おお、トゥリヤ殿。サリハ殿はこの夜更けにどこへ行こうと言うのだ」
剣の柄から手を離したトゥリヤに、兵士は事情を話す。
見回りの途中サリハを認め、挨拶がてらにどこへ行くのか問うた。けれども彼女は首を横に振るばかりで、答えないと。
「サリハさま。今ここに、イブレスさまは居ないのです。あなたが話して、何の問題もありません。兵士の方々もお役目です、正直に答えればいいでしょう。どこへ行くのです、用便ですか?」
兵士の持つランタンの灯りには見えまい。サリハの頬と眼の周囲が、一瞬に火照った。男の前で用便と言われたのが、恥ずかしかったらしい。
「ち、違います!」
そうだと言えば済んだものを、サリハはぶんと頭を振って否定した。両手に拳を握り、力いっぱい。
彼女の全力近い声だろうが、それでもか細かった。朝、地面を突く小鳥たちの囀りのほうがよほどうるさい。
「であれば、何を?」
トゥリヤの声が、一つ音階を下げた。同じく丁寧な言葉を使っても、どうもイブレスに対してより冷たく感じる。もちろん役目を第一に考えれば、おかしくはないが。
「イブレスさまが――」
「イブレスさまが?」
「お出かけになったようなので、心配したのです。でも見失ってしまって」
なるほど先にザハークの部屋の前を過ぎたのは、イブレスらしい。扉越しの人物よりサリハは背が低く、体温の配置も違う。
「またおかしなことを。イブレスさまは、お部屋にお出でです。同室の私が言うのだから間違いありません」
「お部屋を出ていない?」
「ええ、一歩も」
「そんな――」
サリハは口を押さえ、困惑に眉根を寄せた。その様子から、彼女が一つ嘘を吐いていると分かる。
イブレスを見失った。と言ったが、サリハは巫女が部屋を出たところを見ていない。でなければトゥリヤの否定を、すぐに反論したはずだ。
おそらく扉が開く音とか、気配で察したに違いない。
――目的を聞かれて答えなかったのは、追った理由が心配じゃないから。か?
「ちょうど先ほど、私が小用から戻りました。その出入りと誤ったのでは?」
「そうかもしれません……」
誰も、サリハの嘘に気づいていない。兵士は「何だ、そんなことか」という風に、階段を下りる方向へ身体が向いた。
「サリハ殿。あまり怪しげな態度をされては、盗っ人かと疑わねばならない。お気をつけを」
「気をつけます」
項垂れたサリハを置いて、兵士は階段を下り始めた。
トゥリヤも腹立たしげな息を鼻から吐いて、元来た方向へ戻る。だがその口許に一瞬、嘲笑が浮いたのをザハークは見逃さない。
「すまねえな、俺は口べたなんだ」
「ん、ザハーク殿。どうした」
兵士もトゥリヤも足を止め、振り返る。サリハは少し疲れた顔を、ぼんやり上げた。
「俺も彼女に頼まれて、巫女さんを探してた。と言ったって、この廊下をあっちまで見ただけだがな」
女たちの部屋とは反対。ザハークの部屋のある廊下を指して、サリハを庇うでまかせを言った。
トゥリヤの視線が、訝しげに舐め回してくる。当のサリハは、驚きに目を真ん丸にした。稀代の正直者のようだ。
「何だ、事情を知ってるなら早く言ってくれ」
「すまんな。あんたらが何を疑ってるのか考えてるうちに、そっちの姐さんが来ちまった」
苦情を言う兵士に、「ハッ」と一つ笑ってごまかす。
その流れでトゥリヤにも、昼間向けたのと同じ笑みをニヤと。何気なく短刀にも触れて。
トゥリヤがサリハに、何か思うところがあるなら。ついでに分別の足りぬ慌て者ならだが、迂闊な反応を見せるかもしれない。
しかし長身の女は表情を消し、自然な動作で視線を外す。
「ともあれ事情は知れたのだ。兵士の方々、サリハさまにはイブレスさまからお言葉があると思う。今宵はこれまでということで」
「そうしよう」
「いや、そいつは待ってくれ。サリハはともかく、俺が納得いかん」
再び終結しかけた議題を、ザハークは保留させた。
「納得?」
「ああ、いや。中途半端で気持ちが悪いと言い換えよう。捜した物の姿を見ないで、あったとだけ言われてもな」
「なるほど?」
本当にサリハの勘違いならば構わない。何かありそうだと、こんな余計なことをするザハークの勘は、やはり狂っている。
はっきりさせる方法は、至って単純だ。
「サリハ。イブレスが部屋に居るのか、あんたが見てきてくれよ」
「は、はあ。今さらこの上にでしょうか」
これほど簡単に、真偽の分かる事態もあまりない。サリハも戸惑いながら、部屋のあるほうへ足を踏み出しかけた。
「その必要はありません、護衛剣士の私が保証します。だいいちイブレスさまは、とうにお休みです」
「それでは起こしてしまいますね」
トゥリヤが強く言うと、サリハはあっさり引き下がる。だけでなく、そういうことらしいのでとザハークにも謝罪の言葉を向けた。
「ちょっと覗いてみるくらい大丈夫だろ」
「必要ない。兵士の方々もサリハさまだけで、イブレスさまのお姿は見ていない。そうでしょう?」
「ええと、まあ。うん、そうだな」
もう一度食い下がったが、やはり叶わなかった。兵士は階段下のテーブルを指し、そこに居たと言う。
椅子にもテーブルにも人の体温など欠片も残っていないのが、ザハークの眼には明らかというのに。
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