第7話:夜のコーダミトラ

 たかが焼き菓子。貴族の婦女子が食べるのと変わらぬ大きさ。甘味など、足されていない。

 それが貧民街の全員に一枚ずつも渡ったろうか。怪我や病で動けぬ者にも、必ず食わせると言っていたが。


「しょせん俺に出来ることなんざ、これくらいだ」

「いやいや。気休めにはなりやす」

「正直が美徳とでも思ってるのか?」


 またセルギンの案内で、城の方向へ。戻るに連れ、気休めよりはましに建物がきちんとした作りとなる。

 それは同時に、通りも広がるということだ。横歩きをしなくて済み、頭上を覆う崩れかけた壁も消える。


「おい、ありゃ何だ」

「へえ?」


 集会用か、広場に差しかかった。開けた視界の先に、白い塔が見える。

 神殿も大きそうだったが、問題にならない。細く天に突き刺さり、どこまでも果てまで達していそうだ。


「ああ、光の泉でさ。明るいうちも光ってるそうですがね、夜の頃合いにはああやって、あたしらにも見えるって寸法で」

「泉が光るのか」

「ええ、見ての通り。大昔はあれが街の全部を覆ってたそうでさ。全くの出鱈目じゃあないんですよ」


 たしかに光は王城の方向だ。越えた向こうに神殿があって、根元はそこなのだろうと見える。

 だがあの強さはどうだ。いかに火を焚いても、磨いた銀板に太陽を撥ねさせても、あれほどの光にはならない。

 最初に見た一瞬、誰かが夜空へ白い絵の具を引いたのかと思ったほどだ。


 ――どうせなら、もっと太い刷毛で塗りゃあ景気がいいんだが。

 遠目なせいもあって、使われた刷毛は人形の顔を描くくらいと思う。それが逆に、鋼の糸のような硬さを感じさせたが。


「珍しい景色じゃあるな。しかしよそで話してやるには心細い」

「ですねえ。目の前で見られりゃ違うんでしょうが、あたしらは神殿に入れないんでね」


 広場を抜けると、城はもう目の前だった。時間はそろそろ宵の口を終え、誰もが眠りに就くというころ。

 門限を過ぎているから、城には入れられぬとなれば願ってもない。そこでこの街から出ていくつもりだった。だが門番を務める兵士は、愛想良く迎えた。


「街がお気に召したようですね。嬉しいことです」

「お、おう」


 門扉こそ閉まっていたが、閂はかけられていなかった。両脇の門番が二人して、すぐに開けてくれる。

 中には最初に出会った騎士が待ち構えた。不気味に思ったが、これは偶然だと騎士は言う。今日はたまたま、この門の監督役なのだと。


「部屋まで案内しよう」

「仕事中だろ? 道順くらい分かる」

「これも仕事のうちだよ。一人で歩かせては、むしろ叱られる」


 持ち場を離れると簡単に言ってのける騎士に、こちらが気を遣ってしまう。しかし一人では歩かせられないという言葉で理解した。

 ザハークが賓客と言うのでない。勝手をされては困ると言っているのだ。


 ――いや、こいつは違うのかな。

 にこやかな表情に嘘は感じなかった。この騎士はそうしろと命じられているだけで、真意を教えられていないのかもしれない。


「国王陛下は、いつ頃から執務を始めるんだ?」

「特に決められてはいない。その日の用に従って、公爵閣下が采配される」

「公爵ってのは、側近の?」


 国王に付き従っていた弟のことか聞くと、騎士は「その通り」と首肯した。翻訳するに、特別な用でもなければ弟が起こすまで寝ているのだろう。

 すると明日、いつ呼び出しがあるか予想がつかない。心待ちにしているなら日が昇ってすぐかもしれないし、または夕食の余興にされるかもだ。


「じゃあまあ、とっとと寝ちまうか」

「それがいい」


 騎士は灯りに、長い蝋燭の燭台を置いていった。扉が閉められてすぐ、ザハークは火を消してしまったが。

 蛇人に暗闇など、あってないようなものだ。黒一色の世界なのは人間と同じだが、物の形や生き物の存在は判別がつく。


「夜が明けたら出かけるか」


 いつ呼ぶとは聞いていない。それまで必ず城へ留まれとも言われていない。屁理屈と言われようが、事実としてそうだ。あの国王の暇潰しに付き合うのは面倒だった。

 作り付けのベッド。四本の脚に天板を載せただけという、簡素なテーブルが一つ。矢狭間のような小さな窓しかない、狭苦しい部屋。

 加えて扉の錠は、鍵がなければかけられない。こんな場所で寝るくらいならば、密林の只中のほうがよほど安心できる。

 まるで独房。というより、実際にそうなのだろう。きっと入れる者によって、呼び名が変わるのだ。


「ああ、こいつは背すじを伸ばすのにちょうどいい」


 板張りに薄い布を巻いたベッドだが、毛布は一枚与えられた。目を閉じて、疲労を蓄積させぬだけなら十分だ。

 ザハークが長い手足をいっぱいに伸ばすと、膝から下がはみ出した。


「……何だか落ち着かんな」


 どれくらいが経ったろう。傭兵の経験もあるザハークに、この程度の軟禁状態は緊張を呼ぶものでない。直接の監視役さえ居ないのだから。

 だのに、胸騒ぎがした。正体は知れない。もしかすると、酒場で食った料理の油が悪かっただけかもしれない。

 そんなちょっとした違和感。


「誰だ――」


 部屋の前に誰かが居る。城の分厚い壁は無理だが、木製の扉ならば、向こうの様子を知ることが可能だ。具体的には、そこに居る生き物の体温を知れる目をザハークは持つ。

 人の形。体表の温度が低く、皮膚の下は広く温度が一定に保たれる。


 ――女?

 歩き方が、明らかに周囲を気にしていた。ただし絶対に見つかってはならぬ、という風でない。即ち盗っ人などではない。

 もう随分と遅い時間だ。大方、恋人のところへでも忍んで行くのだろう。女のほうからとは、羨ましい。

 その人物は立ち止まることなく、右から左へ通り過ぎた。この部屋に用でないなら、構うことはない。

 ザハークはまた、休息に眼を閉じた。妙な街へ来て、勘が鈍ったらしいことを悔やみながら。

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