第6話:幸福な民

 二人でひと瓶を空けるまで、住民たちの暮らしぶりをゆっくりと聞いた。収入源がないのだから、食べ物や娯楽、どんな切り口を以てでも貧しい様子しか表されなかったが。


「よく分かった。満足じゃなくても、そうするのがミトラの信者として正しいってこった。なら俺の口出しすることじゃねえ」


 あの愚鈍そうな王が悪逆な政治を行っているなら、何か出来るかもと思ったのだ。

 不満の声を挙げる用心棒になってもいい。反乱を起こすなら、先鋒だとて務めよう。報酬が釣り合いさえすれば、安全か否かなど問題でない。


「どうせ俺は、常昼の街ってのを拝みに来ただけだ。周りが夜なのに、この街だけ昼のままってんだろ?」


 それは煌々と篝火が灯るとか、子供だましの域でないと聞いて来た。どういう理屈か街の全体を、太陽があるのと全く変わらず光が照らすのだと。


「あ、いや――」

「旦那、そいつは無理なんでさ」


 世にも珍しい景色が見られると思って、あの王の面倒な歓迎も受け入れたのだ。でなければ退室した次の瞬間、ダージに跨っていた。

 だのに店主とセルギンは言葉で否定するだけでなく、気の毒だと表情にまで示した。


「何だ、嘘なのか」

「嘘ってことはないんだが、なあ」

「そうなんでさ、嘘じゃない。ずっと大昔には本当にそうだったって、神官は言ってるんでね」


 ――それを嘘ってんだよ。

 神代の昔。この世界が神の暮らす場所だったときはそうだった、という逸話が方々にある。

 ありがたいと信じる者たちに、嘘っぱちだと詰る非道を働く気はない。が、遥々と無駄足を踏まされた徒労感は否定できなかった。


「そうか。それなら明日、どこか面白そうな街へ飛ぶだけだ」


 外への扉を開けると、石畳の通りに夜が落ちていた。見上げても最近見慣れた隣国の星と変わりない。

 二度とここへ来ることもあるまい。その意味をもこめて「じゃあな」と店内に置いていく。


「ああ旦那、戻らないほうがいい」

「あん?」


 店主の焼いてくれた菓子を両腕いっぱいに抱いて、セルギンが着いてくる。案内をさせろと言うので、断らなかった。

 城までの僅かな道行きの、何を案内するのか。疑問に思ったが、「やる」と言う者の意気を削ぐのは好みでない。


「一見の立ち寄りそうな道すじは、歓迎しろって含ませてあるんでさ。この街の普段が見たいんでしょうや」

「そうか、任せる」


 騎士が城下の商売を励ますのは当然だ。しかしザハークの一人にそこまでして、成果などたかが知れている。

 意図は知れぬが、もう知る気も失せた。この街になんの魅力も感じていない。訪れるときに見た宙に浮かぶ島の光景が、思えば最高潮であった。

 ともかくセルギンは、道を下っていく。家並みはますます貧相になって、文字通り下町なのだろう。ダージに乗って飛び越えた辺りまでやってきた。


「お前の近所か」

「いえ、あたしはまだ先でさ。でもまあ、この街でも貧乏って言やあここらでね。心のご近所ってところで」


 歩く道は、通りと呼べなくなっている。建物の間に生じた、隙間と言うのが正しい。石畳も、もちろん敷かれていない。

 その建物も、どこからどこまでが一つなのか分からない。潰れかけた端を隣の柱が支え、その反対をまた隣が潰れかけて押し返す。そんな有り様だ。


「おかしなこともあるもんだ」

「何です?」


 どんな街にもある、貧民の集まる区画。その風景に必ずあるはずのものが見当たらなかった。

 殺気や忍び寄る気配も感じ取れない。ザハークの感覚が鈍いのなら、賞金稼ぎと名乗った初日に死んでいる。


「盗っ人が居ねえ。よそ者が入ったら、すぐに懐を狙うもんだろ」

「おやおや、そいつはあたしへの皮肉で?」

「お前みたいのが居るから、余計におかしいと言ってんだよ」


 セルギンは「へへっ」と自嘲気味に笑う。よそ者と言うなら、自分もそうだと付け加えて。

 ピュウ、と。彼は指笛を鳴らした。すると近くの板切れが捲れ、布がはためき、放置された棚が扉のように動く。

 感情のない様子を窺うだけの視線は、数え切れぬほどだった。それが死霊などでなく、生身の人間と視覚に示す。


「随分と居るじゃねえか」


 ゆっくりと近づく彼ら彼女らは、十の単位では済まない。半分近くが老人と幼い子ども。その両者は、酒場への道中に見かけなかった。


「ひっ!」


 先頭の痩せた子が、ようやくザハークの姿を認めたらしい。立ち止まるだけでなく、跳ねて一歩を戻る。


「そうそう。それで普通なんだ」

「旦那、相当に捻くれちまってやすね」

「うるせえ」


 進んで忌み嫌われたいわけでない。だがずっと当たり前だったものが突然に失せれば、何だか調子が狂う。

 怯える子を抱きとめた親も、我が眼に映った人影を疑う。こんな生き物がこの世に居るのか、悲鳴とも呻きともつかぬ声が、口から溢れ落ちる。


「さあみんな、ザハークの旦那からの土産だ! 腹いっぱいとはいかないけど、あるだけ食っちまいな!」


 豆を入れる丈夫な袋に詰められた焼き菓子。セルギンが放り投げると、住人たちは我先に群がる。空腹を通り過ぎ、飢餓の域に達しようとしている目だ。

 けれど、信じがたい光景がまたもあった。

 最初に菓子を手にした男は、両手に持ちきれぬほどを確保していた。当然それは独り占めにするつもりだったはず。それを見越して、いくつもある袋をまだ一つしか投げさせていない。


「おい、どういうことだ」

「争いにはならないって言ったでやしょ? これがミトラのご加護でさ」


 たったひと口。最初に齧ったその瞬間に、男は正気を取り戻した。

 いやむしろ、満腹になるまで貪るのが正常のはずなのに、男は食欲を投げ捨てた。齧った一枚だけを手に残し、他は全て力負けする子らに分け与える。

 これこそ慈悲の姿だ。聖職者なら、感涙に咽ぶだろう。だがザハークには、そう受け取れない。


「気に入らねえな……」


 なぜこんなことが起きるのか、理由の想像もつかなかった。セルギンに改めて問うても、「分かるわけがない」と。これがこの土地の普通なのだ、としか答えられないと言う。


「ありがとうございます、ザハークさん」

「ミトラの思し召しに違いない」


 喋る活力を取り戻した者が、もう怖れる様子もなく手を握ってくる。その変貌ぶりに、ザハークのほうが目を見張った。


「お前らこんな暮らしが、苦しくねえのか」

「何を仰います。ここほど幸せな暮らしが、他にあるものですか」

「そうですとも。代わってくれと言ったって、明け渡しやしません」


 心底そう考えている。柔らかな微笑みが物語っていた。

 残りの菓子を分けるセルギンは、一瞬悲しそうに首を振る。ザハークには不気味としか見えなくとも、これがこの街の現実と理解するしかないようだった。

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