エピローグ
42 善得寺
守れ猶 君にひかれて すみよしの まつのちとせも よろづよのはる
北条新九郎氏政
駿河善得寺は、かつて太原雪斎や今川義元が修行していた寺である。
善得寺にはすでに、今川義元、武田晴信の両名が来ており、寺の僧たちから運ばれる膳の数々に見入っていた。
「……これは」
晴信の感歎の声を上げた。
山海の珍味というわけではないが、駿河で採れる山菜や魚、あるいは猪肉といった、このあたりで手に入るものを使って、丁寧に料理されたものだとうかがわれ、晴信は早くも箸を取りたくてうずうずとしていた。
「……どうじゃ、なかなかのものじゃろう」
義元は得意げに胸を張った。
「……別に義元どのが作ったわけではなかろうに」
晴信は少々嫌味を言ったつもりだったが、義元の次の言葉に度肝を抜いた。
「予が作ったわけだが?」
「はあ?」
「そこのしらすは塩加減が肝心。そこのわかめも、水に
「……まことか?」
晴信が武田の軍師のような反応を示したのを、義元はしてやったりとほくそ笑む。
「
禅寺では、僧侶の役割を分担しており、その中で食事を担当する役を、典座といった。
義元は小僧時代にこの寺の典座を務め、僧たちの、特に師である太原雪斎に舌鼓を打たせていた。
「……もしや、この寺を会盟の場に選んだのは」
「左様。予が饗応したかったからだ、この膳で」
俗から離れた御仏の前で、かと思うたと晴信が言うと、それもあると義元はこたえた。
「……いずれにせよ、こたびの
そこで義元は黒く染めた歯を見せて、にっと笑った。
そこへ、寺の僧が来客の旨を告げに来た。
「来たか」
晴信が立ち上がると、場に二人の男が現れた。
一人は初老。
一人は青年。
初老の方の男が言った。
「お屋形様、お久しゅうござる」
「……美濃、息災じゃの」
こうして原美濃守虎胤は、ようやく晴信の元に帰参した。
晴信は青年の方へ目を向ける。
「こなたはどなたかのう」
「ええと、お、お久しゅうございます」
たどたどしいながらも丁寧な言上に、思わず晴信は顔をほころばせる。
「ほう……良き若武者ぶりじゃのう……じゃが、はて……どこぞで
いぶかしむ晴信に、義元が助け舟を出した。
「福島正成の弟じゃろう……たしか元服したと聞いたがのう」
「……おお」
晴信は、今井狐橋の戦いで、物見に出てきた
「こたび、原美濃守虎胤さまに烏帽子親になっていただき、元服いたしました、弁千代改め北条綱房でございます」
弁千代は、河越城への使いを果たしたことにより、正式に北条家の「御一家」となり、かねてから予定していたとおり、元服した。その元服にあたって、氏康は意を用いた。
父親を討った虎胤に、敢えて烏帽子親になってもらい、公的にも恨みはない、というかたちにしたのである。むろん、事前に兄である北条孫九郎綱成には話はしており、綱成は二つ返事で了承し、それではと、氏康と綱成は二人で虎胤に懇望した。
「わしのような鬼で、ほんとうにいいのかのう……」
「鬼だからよい、と兄・綱成は申しております
最後は弁千代も頼み込んで、とうとう虎胤は折れたという次第である。
善得寺
「……何にせよ、めでたい。ささ、
「晴信どの、だからまだ北条の……」
たしなめる義元だが、別にまあいいかと思い、それ以上は言わなかった。福島正成の息子が、かように立派な若者となったことに、ひそかに感銘を受けていたからである。
「……ま、いいか」
義元がそう言って、
「……遅くなった」
北条新九郎氏康である。
かなり急いできたらしく、息を荒くしている。
「……何をしておったんじゃ」
義元がいぶかしむ。
「遅い……おや」
目ざとい晴信は、氏康の持っている
「もしや」
晴信が
「左様。
氏康が魚籠の中を披露する。
「ほう」
義元が氏康から魚籠を受け取りながら感歎する。
田子の浦での思い出を、というわけか。
味な真似を。
「いや……
義元はひとりでくっくっと笑い、庫裡へ声をかけた。
「師よ。追加の品じゃ。料理してくれい」
そうすると、太原雪斎が、ぬっと現れて、「ほうほう」と言って義元から魚籠を受け取り、また庫裡へと戻っていった。
「……いらっしゃったのですか」
綱房が唖然として言う。
「そうよ。貴殿が来るというから、師も庫裡にて腕を振るった次第」
雪斎なりの、福島正成の息子への気遣いということらしい。
「
晴信はもう、できあがったような雰囲気を醸し出し、扇子を取り出し、舞を舞わんばかりの勢いだった。
「……ご両名、そして美濃どの、綱房」
それまで黙って微笑んで見ていた氏康が、声をかける。
思わず誰もが注目し、静かになった。
「……いや、そんなにかしこまらないでもいいんだが、とりあえず、先に同盟を結ぶ儀式とか、やった方がいいんじゃないか」
晴信は、きょとんとした顔をして、言った。
「いや、別に、考えてない」
「はあ?」
晴信は、そんなことより、早く酒食を共にして、細かいことは家臣にやらせればよいと言った。だからそれぞれ、家臣一名が来ることになっているだろうと、うそぶいた。
虎胤が、いやわしは取次(外交)は不得手で……と言うのを、晴信はまあまあと誤魔化す。
鬼め、と虎胤が晴信を睨んだが、晴信はどこ吹く風である。
義元は、
「……予と師は、久々に料理がしたかったからのう。同盟の儀は、誰ぞ、考えていてくれるかと……」
そんなことを言ってきた。
「……お前ら」
氏康としては、儀式があるのだろうと思って、駆けてきたというのに……と拳を握り、振るわせた……が、綱房の視線に気づき、拳を下ろした。
「……わかった。弁千代、じゃない綱房、寺の方から紙と筆、調達してきてくれ。こうなったら仕方ない。伊勢流故実……あまり得意じゃないが、やらせてもらうぞ」
*
いろいろとあったが、善得寺の会盟はとどこおりなく進み、今川、武田、北条は甲相駿三国同盟を首尾よく締結した。
これにより、今川は西・三河へ、武田は北・信濃へ、北条は東・関東への進出へ傾注することになる。また、この同盟は互いに援軍を派遣することも視野に入れていたらしく、たとえば北条孫九郎綱成は、のちに川中島という戦場へ征くことになり、そこで原虎胤や真田幸綱と再会している。
こうして、北条新九郎氏康と北条綱房は同盟締結のもろもろを終えた後、今川義元、太原雪斎、武田晴信、そして原虎胤に別れを告げ、一路、相模小田原へと旅立った。
帰途、綱房はある城に気づき、氏康に声をかける。
「新九郎さま」
「なんだ」
「ごらんあそばせ、興国寺城でございます」
「おお」
弁千代じゃない綱房は目がいいのう、と氏康は言いながら、祖父・伊勢宗瑞の最初の城を、感慨深く眺めた。
「……もう今は、今川義元どのの城ですから、寄れませんね」
綱房は氏康を気づかう。
「いいさ。その代わり、じい様の夢はかなえてやったんだから、叱られはせんだろう」
そこで氏康はふと天を仰いだ。
空はどこまでも青く。
はるか天上までつづいているようだ。
そこには、いるのだろうか。
「……じい様」
ひとりごとであり、先を行く綱房は気づかず、進んでいく。
――なんじゃ、伊豆千代丸。
「じい様?」
それは、氏康の耳にだけ届いた。
氏康が改めて空を見ると、人影が浮かんでいた。
人影は、老人と、壮年の男女。
――新九郎、ようやったのう。
「父上……」
――伊豆千代丸、こんなに大きくなって……。
「母上……」
――わしの夢、ようかなえてくれたのう。
「じい様、これで良かったのか?」
――よいともよいとも。それがかなわなくとも、やろうとしてくれただけで、わしは嬉しい。
「じい様……」
――礼を言うぞ、伊豆千代丸。わしのは
「……そうか、そうだった。じい様、ありがとう」
老人の影は照れくさそうに頭を掻いて、脇へ
その代わりに、壮年の男が前に出る。
――だがこれで
「分かってるよ、父上。勝って兜の緒を締めよ、だろ?」
――そうだ。頑張れ、新九郎。
「ありがとう、父上」
次いで、今度は壮年の女が声をかける。
――でもね、伊豆千代丸。
「何だい、母上」
――共にいて、頑張ってくれる者がいます。見なさい。
「え?」
そこで氏康は、振り返る。
そこには、北条孫九郎綱成と清水小太郎吉政が立っていた。
綱成が言う。
「迎えに来た」
清水小太郎も言う。
「あとの連中は、修善寺にいるぜ」
氏康はこたえた。
「そうか……」
何故だか涙が出てきた。
――行きなさい、伊豆千代丸。
――受け継いだのは、お前だ、新九郎。
――わしらは、見守っておるぞ、伊豆千代丸。
「分かった……」
氏康は涙をぬぐう。
綱成と清水小太郎は、何ごとかと思ったが、察したのか、何も言わなかった。
しかし綱房は知らず、その向こうで、まだですか、と言った。
「行こう」
氏康は進み出す。
自然に、綱成と清水小太郎は肩をならべる。
綱房はそのうしろに、そっとしたがう。
興国寺城が、天が、天上が、その一行をいつまでも、いつまでも見守っていた。
完
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