27 運命 下
北条と
「元忠さま……」
「猪助、今は逃ぐるのだ。さ、行け」
「実は、
「え? あ、また敵襲ぞ。行け!」
「あ……」
元忠は、猪助の乗った馬の尻を叩き、馬を走らせた。
猪助の馬が、無事、府中の方向へ向かったことを確認した元忠に、黒備えの兵から報告が入った。
「何? 綱高が、扇谷上杉の馬廻り・曽我神四郎と?」
何を考えている、綱高。
今は生きて逃げることが先決だ。
敵将とやり合ってる暇は無いのだ。
元忠は、ひとつため息をつくと、兵に案内を求めた。
本気になった綱高を止められるのは、今この場には自分しかいないからである。
*
怒れる猛禽のごとく、赤い甲冑を振るわせて、綱高が
対する神四郎もまた、刃を輝かせて、突きを繰り出す。
綱高と神四郎の刀が激突し、鈍い音を響かせた。
「ぐっ……」
「く……」
綱高の背後から元忠が現れ、手にした槍の柄を突き出した。
「がっ」
神四郎はまたしても顔面に衝撃を受け、たまらず、たたらを踏んで、うしろへ下がった。
唖然とする綱高を、元忠が張り倒す。
「馬鹿者! 逃げよという殿の命を忘れたか!」
「うっ……すまぬ」
綱高は片手で顔をさすりながら立ち上がった。その顔はもう、いつもの綱高に戻っていた。
「正気に戻ったようだな、さ、逃ぐるぞ」
「応」
「逃がすか、馬鹿め」
神四郎は今度こそ手下に命じて、綱高と元忠を囲もうとした。
「者ども、囲……めべっ」
綱高が立ち上がる時につかんだ土が、神四郎の口中に飛び込んできた。
「よっしゃ、行くぞ元忠」
「心得た」
神四郎が土を吐くのをしり目に、二人は回れ右をして駆け出した。周りの扇谷上杉兵は呆然として手を出せずにいる隙に、二人はあっという間に北条軍の最後尾に追いついた。
「……ぺっ、ぺっ、何をしている! 追え、追え!」
神四郎の怒号と共に、扇谷上杉軍は、追撃戦を開始した。
一方の扇谷上杉朝定は、北条軍を散々に追いやり、途中、曽我神四郎の乱闘を聞いて引き返したものの、そのころには神四郎は勢いを取り戻していたため、合流し、さらなる攻撃を北条軍に加えた。
「ふん、どこまでも逃げていきよるわ、鼠賊ども!」
朝定は得意の絶頂だった。
古河公方・足利晴氏に、この北条本陣の探索と襲撃を提案し、頼りにしていると言われたこと。
うまく北条本陣を見つけ、襲撃、しかも夜襲によって、これまでの恥を
そして、南下して逃げていく北条軍を追う、つまり、扇谷上杉が南武蔵を取り戻していると関東諸侯、特に山内上杉に知らしめることができること。
そして何より、この河越包囲から始まる一連の戦において、一番の大手柄は、この北条軍夜襲の立役者、扇谷上杉朝定であるということ。
「扇谷上杉の再興、もはや成ったわ。のう、神四郎」
「何の、これからこれから、まだ伊勢の鼠賊の首魁の首を取っておりませんぞ」
「おうおう、そうじゃった、そうじゃった」
綱高や元忠を逃したものの、北条軍の潰走は止まらない。
このままどこまでも南下し、相模まで至るかと思われた。
*
「お頭! もはや殿は逃げている最中のようです!」
「扇谷上杉も、殿を追うておる模様!」
「…………」
風魔小太郎は、左馬助の愛馬を走らせて、ようやく
風魔小太郎は考える。
すでに北条軍は逃げている。
行き先は、打ち合わせのとおり、府中だろう。
そうすると、今、問題は。
「扇谷上杉に調子に乗って、
風魔小太郎は、風魔衆に命を下した。
「お前たち!」
「はっ!」
「急ぎ、扇谷上杉の兵に混じり、青備えが迫っていると、噂を流せ!」
流言飛語。
それは、
今こそ、それによって、扇谷上杉を惑わせてやる。
そして、それこそが……。
「道灌さまの『風の者』の……」
「お頭?」
「いや、何でもない。おれも行く!」
「はっ!」
*
……北条軍に食らいつくのに、もう何度目か忘れるくらいだった曽我神四郎は、部下からの青備え接近の恐れありとの進言が相次いだため、ついに兵の停止と撤収を朝定に進言した。
「……殿、将兵から、もはや
「そうか? だが今少し……」
「いえ、たしかに将兵の言うとおり、さすがに江戸の青備えの手が届くところまで来るのは
「そ、そうか」
さしもの扇谷上杉朝定も、北条軍最速の青備えのことは知っている。
「夜討ちしたわれらが、夜討ちされたとあっては笑いもの。もうそろそろ……」
興奮冷めやらぬ朝定であったが、反北条の急先鋒である神四郎にそう言われては、たしかにもう潮時だなと感じた。
「よかろう。では、帰りに、あの神社に寄って、奴らの旗指物でも、手土産に持っていこう。そして……」
「こたびの戦、勲功第一は扇谷上杉にあり、と知らしめるのですな」
「そうよ」
朝定と神四郎は大笑いして、軍を止めて休憩を命じるのであった。
*
白々と、東の空が白々としてきて、ようやく夜が明けたことが知れる。
西の方、うねうねと波打つ山稜が、その線を濃くして、見る者にその優美な形を教える。
今日も、武蔵野に朝がやって来たようだ。
草花は萌え、木々は葉を輝かせ、うららかな春を感じさせる。
……何もなければそれは、幸せな武蔵野の春であった。
「……それで、もう、帰ってくる者はおらぬのか」
「もはや……」
北条新九郎氏康は、一睡もせず、ずっと北の方を眺め、兵の帰還を見守っていた。
武蔵。
府中。
古代より、武蔵国の中心として位置づけられ、国府が置かれたここは、鎌倉街道の上道が通っている。
「そうか……」
氏康は脱力したように、その場に腰を下ろした。すると、そのときを待ち受けたかのように、北条綱高と多目元忠が氏康のところへやって来た。
「……よう」
綱高が、無精ひげを撫でながら、氏康の隣に座る。
「失礼つかまつる」
元忠が、綱高を無礼者め、と
「大儀。皆は無事か?」
「おおよそは」
「士気は落ちてるけどな」
元忠は、また綱高を睨んだが、何も言わなかった。事実だったからである。
北条軍は、
……そして、諏訪左馬助の死がそれをより強くしていた。
「……拙者、一生の不覚でござる」
いつの間にか場にいた風魔小太郎が平伏していた。
「いや、風魔衆は良くやってくれた」
氏康は風魔小太郎を慰撫する。そして決然として言った。
「諏訪左馬助については、おれに責がある。おれが殺したようなものだ」
「新九郎さま?」
弁千代が顔を上げた。
「聞け、弁千代。あのとき、小田原で話しただろう、古河公方と和睦し、その後、扇谷上杉を討ち果たす、と」
「は、はい」
「あれは、古河公方とは和睦したが、扇谷上杉とはしていない、ということにして、騙し討ちにする、という魂胆だった」
「しかし、それは兵法では……」
「いいや、ちがう」
氏康は首を振って、強く否定する。
「……兵法というなら、このたびの扇谷上杉の夜襲もそうなる。結局は、狐と狸の化かしあいに、おれは負けたのさ。で、その負けた賭け金の支払いとして、左馬助が……」
「おやめ下さい! 左様な言い様では、左馬助が……」
弁千代がらしくもなく氏康に抗議する。
「おい新九郎」
綱高が氏康の肩をつかんだ。
「ふざけるな」
次の瞬間、綱高の拳が氏康の顔面に飛んだ。
「つ、綱高さま」
「弁千代、黙ってろ。元忠、止めるなよ」
「止めるつもりなら、最初から止めておる」
元忠は腕を組んで、氏康をじっと見つめている。殴りはしなかったが、綱高と同じ気持ちらしい。
弁千代は、はらはらしながら氏康と綱高を見ていた。
風魔小太郎は黙然と平伏したままだ。
氏康は殴られたまま、沈黙していたが、やがて口を開く。
「……すまない、綱高兄」
「分かればいいんだ。で、どうする?」
「……風魔小太郎、
「は」
氏康は今一度、左馬助の最期について、風魔小太郎に問いただした。
「つらいだろうが、確かめたい……左馬助は、夢を……と言うたのじゃな?」
「……左様にございます」
「夢、か……」
氏康は知っている。
この場にいる皆も知っている。
北条家において、夢といえば、唯一つ。
それは……初代、伊勢宗瑞(北条早雲)が見たという霊夢。
鼠が、
宗瑞が
「重ねて問う……左馬助は、夢を……と言うたのじゃな?」
「は……ははっ」
風魔小太郎が、彼らしくもなく動揺している。
……氏康は
弁千代は、氏康が何故そのような顔をしているのか分からず、
「ど……どうなさいました、新九郎さま? 一体……」
「弁千代」
その時の氏康の声は冷え冷えとして、場にいる誰もが凍りついた。のちに綱高は、あれは
「弁千代、お前……」
「は、はい」
そこまで言いかかって、氏康は急に我に返ったように、うなだれた。
「い、いや、すまぬ。何でもない、何でもないんだ」
「ちょっと待って下さい、新九郎さま。今、一体何を言いかけたんですか!」
今度は逆に弁千代の方が凄んで、氏康に迫った。
「すまない、おれは左馬助を失ったばかりだというのに、なんということを……」
「おい待て新九郎、何か思いついたんだな? 言えよ」
綱高も動揺のためか、口調が子供の頃に帰ったまま、氏康に詰め寄った。
氏康は救いを求めるように、うなだれたまま元忠や風魔小太郎の方を見たが、両名とも、黙って首を振り、綱高と同じ気持ちであることを示した。
「……分かった」
氏康は観念したように顔を上げた。
「左馬助の最期の言葉、『夢』は、皆も承知のとおり、じい様、つまり伊勢宗瑞が見たという霊夢だ。ここまではいいな?」
「はい」
弁千代が一同を代表して返事をする。
氏康はそれを聞いて、目を閉じてうなずく。
「……よし、それでは、なぜ左馬助がそう言ったのか。それは単なる願いではない。今こそその夢を果たす好機という判断を下し、それを進言しているのだ」
元忠が質問する。
「……殿。なにゆえ、今こそ夢を――つまり両上杉を倒す好機なのですかな?」
「それは――」
氏康はそこで薄目を開ける。
「それは、これまで、北条は和睦をと願い出ていた。これは弱腰と見られる。その上で、扇谷上杉はだまし討ちとはいえ、北条を襲撃し、追い払った。これは、北条はもう弱体化したと見られる。つまり、両上杉は、北条は大したことはないと油断する」
「たしかに……河越の包囲陣は勝ちを目前にして、ゆるみ切っていると聞きますが……」
元忠が風魔小太郎を横目でちらと見る。
風魔小太郎はかすかにうなずく。
「だから」
氏康は弁千代を見すえる。
弁千代は緊張して、氏康の次なる言葉を待った。
「だから、弁千代、死んでくれ」
運命 了
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