14 田子の浦 下






 古河御所。

 その謁見の間では、古河公方・足利晴氏の前に、太原雪斎と本庄藤三郎が平伏していた。

「……苦しゅうない、おもてを上げよ」

「は」

 雪斎はその禿頭とくとうをつるりと撫でながら、顔を上げた。藤三郎はそっと、雪斎の顔の陰に隠れるよう、顔を上げた。

「……して、本日はに何の用じゃ?」

 躬って何だいと藤三郎は呟く。「私」という意味じゃ馬鹿もん、と雪斎が小声でこたえた。


「古河公方さまにおかれましては、ご機嫌麗しゅう……本日、拙僧が拝謁賜ったのは、ほかでもありません。河越のことでござる」

「河越」

 晴氏はどこか遠くの国の地名でもあるかのように、よそ事のような感じでつぶやいた。

「左様。関東管領・山内上杉憲政ならびに扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだ、関東諸侯を糾合し、八万の大軍を集め、河越の城を包囲しております」

「知っておる」

 晴氏は懐中から二通、手紙を取り出した。

「かように、義兄・氏康ならびに綱成から、ふみをもろうておる」

 雪斎はその様子に目を細めた。

 たぎっておるな、と藤三郎はその背中を見て思った。

「公方さまにおかれましては、その文をお読みになり、河越については静観するとのおぼしでありましょうや?」

「いや……」

 晴氏は扇子を取り出して広げ、口を隠す。

「迷うておるのじゃ」

「迷う、とは?」

「躬が河越に行きゆきて、関東管領や扇谷上杉に物を言うたところで、聞くまい。それゆえ、何もせぬ、としておったが……」

 晴氏は扇子を動かす。その動きがふらふらとしている。

「こたび、禅師の訪問を受け、躬が必要とされておることを、知った」

 懐中から三通目の手紙が出てくる。それは、関東管領・山内上杉憲政と扇谷上杉朝定の連名の、晴氏への雪斎の紹介状であり、実際は雪斎が書いたものである。

「この文によると……躬が出てこそ八万の兵は奮い立つ。八万の兵は百万と化す。今こそ、古河公方は公方であることを指し示す時、とあってのう……」

「ご出陣あそばすべきか、とお悩みですか」

 雪斎はさりげなく、ずい、と前へ出た。

 藤三郎はついていくべきかどうか迷ったが、雪斎の気迫に気圧され、やめておいた。

「公方さま、山内上杉と扇谷上杉だけではありませぬ、今川や武田もまた、公方さまに従わんと、かの北条を西から攻めております」

「おお」

 そうじゃったな、と晴氏は扇子に隠した口からこぼす。

「公方さま、よくよく考えめされ。これは関東公方家のみならず、足利家にとって――将軍家にとっても、乾坤一擲の好機であることを」

「足利、とな」

「左様。公方さま、過去において、足利家に、八万の兵を率いたお方がおりますか?」

「……聞いてないのう」

 ほっほ……と雪斎は、わざとらしく笑う。上機嫌の証拠である。

「公方さま、上さまに――征夷大将軍に、お成りあそばせ」

「はっ!?」

 晴氏は思わず扇子を取り落とす。

「なにゆえ、禅師は左様なことを申すのじゃ? 躬が河越八万の軍と合流したところで、その実、関東管領、両上杉が……」

は拙僧が抑えます。何、大したことではござらん」

 何か不穏なことを言ってるな、と藤三郎は思ったが、彼は山内上杉憲政にそこまで義理立てするつもりはなく、むしろ、偉ぶっている連中が抑えられればいい気味だと、ほくそ笑んだ。


 雪斎は何気なく懐中から地図を取り出し、晴氏の前で広げる。

「河越を陥とせば、そこにいる福島……いや、北条綱成は討ち死にか、あるいは責任を取って自害。そして、その勢いで南下し、武蔵を取り、相模へ向かって、次は北条氏康と対決。何、拙僧と八万の軍がいれば、大将首は軽く取れましょう……」

 雪斎は笑みを浮かべながら、しかし両目には鋭い眼光を宿して、晴氏を見る。

 晴氏は震えた。

 彼の妻は北条氏綱の娘、つまり氏康の妹である。関東における大勢力であった、北条家。その娘を妻とし、外戚とする。高貴な血筋によくあることであり、晴氏としても別に妻に不満はなかったので、受け入れてきた。

 しかし、最近、考えるようになってきた。

 このままでいいのか、と。

 だから、氏康や綱成に書状をもらっても、両上杉に対して何をするでもなく、ただ事態を静観していた。

「…………」

 晴氏の視線が書状に注がれる。

 雪斎は、そっと、つぶやく。

「……会いに来もせず、使いも寄越よこさず、指図のみ、か」


 そうだ。

 指図するな。

 そう思ったのだ。


「躬は公方だというのに……」


 かかった。


 雪斎は今こそと弁舌を振るう。

「北条綱成と氏康が亡き者になったとき、その北条家の領土は晴氏さま、あなたのものですぞ」

「躬の? いや、まだ義弟の氏尭うじたかどのが……」

「晴氏さま、あなたの奥方は、氏康の妹ではあるが、氏尭からは姉。つまり、北条家の家督は、あなたのものです。あの広大な領土はすべて、あなたのものです」

「……う……」

 この時代、長幼の序というものがあり、そしてまた、女系という考えもあり、ではあるが、雪斎の論法は説得力があった。

「……そして、北条の領地を手に入れたら、鎌倉に動座いたしましょうぞ。元来、鎌倉が関東公方の御所のあるべき場所ゆえ……すでに、里見の方へは手を回してありまする」

 房総、里見家は、先年、鎌倉に攻め入って、鶴岡八幡宮を燃やしてしまうという大失態を犯した。雪斎は、今こそその雪辱を、と里見義堯よしたかに書状を送っていた。


 晴氏は雪斎の手並みに感心してうなずいていたが、あることに気づき、それを口にする。

「しかし、それは鎌倉に復するということであり、将軍とは関係が……」

「そこで、わが主、今川義元と盟友である武田晴信の出番でございます。両名とも、露払いとして、公方さまが鎌倉入府をされたら、西へ進むという手はずになっております」

 誰が盟友だ、と義元と晴信双方から文句の出そうな台詞である。しかし、そもそも西上するということ自体、雪斎の法螺ほらであるので、雪斎はかまわずつづける。

「関八州八万の軍を率いて上洛なされば、何の、東だ西だのわめく足利御本家の方も、ぐうの音も出ますまい」

 応仁の乱からこの方、東西双方で足利家の者が将軍に擁立されることが、ままあった。雪斎はそれを乱れとみなし、晴氏にそれを正せ、と煽ってきた。

「禅師の言うことやこころよし。したが……本当にそのようなことができるのであろうか……」

 晴氏は今や、話半分どころか大半を信じつつあった。しかし、戦乱の関東でもてあそばれてきた関東公方家の者として、今ひとつ、信じ切れない、踏ん切りがつかないところがあった。


 もうひとつ、何か。

 あとひとつ、何か。

 それがあれば、自分とて武門の、しかも棟梁の家に連なる身。

 天下を……狙ってみたい。


「…………」

 今や、自分から身を乗り出してきた晴氏を見て、雪斎は逆に後ずさる。

 後の先だな、と藤三郎は武人らしい感想をもらした。

「ぜ、禅師……なにゆえ、退く。躬とて、足利よ。そのような企図を聞いて、虚心ではいられぬ。もっと、もっと無いのか、禅師よ……何か……」

「左様でございますな」

 雪斎はそこで、わざと前へ進みで、ささやく。

「晴氏どの……こたびの天下取り、これはあなたさまにしかできぬことでございます」

「う、うむ……」

「拙僧には、その証を、晴氏さまの……その運命に見ました」

「う、運命とな」

「左様。先ほども申し上げましたが、晴氏さまの奥方は、北条の娘でございますな」

「そ、そうだ」

「では……足利尊氏公の奥方は、どんなお方でしたかな?」

「……む……まさか……」


 足利尊氏。

 鎌倉幕府討幕の立役者であり、建武の新政を覆した張本人でもある。

 やがて、自らが征夷大将軍となる室町幕府を打ち立てるが、その妻は、北条得宗家赤橋流、最後の執権・北条守時の妹であった。

 ついでに言うと、鎌倉時代、足利家は代々、執権・北条家から嫡男に妻をもらっていた。これは、有力御家人との結びつきを強めたいという執権・北条家の意向であり、その見返りとして、足利家は源氏の氏の長者であるということを認めていた。


「み、躬が……源氏の……氏の長者……に……?」

 大した詭弁だ、何が源氏の氏の長者だ、と武田晴信あたりが言いそうだが、北条氏康の母は、執権・北条家横江流の血を引いている可能性が高いと云われている。

 足利晴氏は、この雪斎の発言を信じた。信じたくて、信じた。彼は、自分が足利家だからという理由ですり寄ってくる者が多く、自分ではなくて、「足利家」が目当てなのだと信じてきた。しかし今、目の前の太原雪斎は、自分を、足利晴氏自身を見ていた。晴氏が、北条氏綱から強い要請を受けてのことだが、氏綱の娘に会って気に入り、そして今日まで一緒に過ごしてきたという、晴氏自身のやってきたことを見てくれた。そしてそれが、現在の足利家の祖というべき尊氏と同じであり、尊氏以前の足利家当主と同じであるという、奇瑞と言ってくれた。

「晴氏さま」

「な、何じゃ」

「どうか拙僧を、いや天下万民を導くため、お立ち下さいませ!」

 藤三郎は、平伏した雪斎の目線を受け、ああそういうことかと気づき、遅れて平伏する。

「……うむ。誰か、誰かある!」

 晴氏は立ち上がり、近侍の者を呼んだ。

「これより、躬は出陣いたす! 行き先は河越、そして古河へは戻らぬものと思え!」

「ははっ」


 晴氏は早速に鎧を身に付けるため、一時退出した。

 雪斎はその間、取り出した筆で、懐紙に記して、藤三郎に渡した。藤三郎はかねてからの手はずどおり、古河御所の庭に行き、そこに預けていた鷹の足に紙をくくり付けた。

「サブロウ、主人の元へ行け」

 鷹のサブロウと藤三郎は、名前が似ているせいか、仲が良かった。サブロウは藤三郎の腕に乗った。

「それっ」

 藤三郎は鷹を放つ。

 鷹はぐんぐんと上昇し、やがて藤三郎に別れを告げるように弧を描いて飛んだ。

 藤三郎が手を振る。

 鷹はひと鳴きし、遠く、駿河へと飛んで行った。







田子の浦 了

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