第2部 関東争乱
15 いざ鎌倉 上
鎌倉の 見越しの崎の
万葉集
北条新九郎氏康率いる北条軍は、河東から速やかに撤退し、伊豆を越え、相模を急ぎ進軍していた。
……途中、伊勢宗瑞(のちに北条早雲として知られる人物)の初めての城である、興国寺城を通り過ぎて行ったが、氏康が立ち寄ることは無かった。
叔父である北条宗哲(のちの北条幻庵)に居城・長久保城を開城させ、今川に譲らせてしまったという引け目もあるが、何より、小田原の弟・
里見水軍、鎌倉へ。
大永六年(一五二六年)に、里見義豊が鎌倉に攻め入って以来の、数百艘規模の水軍と思われ、氏尭は軍師・根来金石斎と共に北条水軍を急ぎ糾合し、里見水軍の襲来に備えつつあった。
ちなみに根来金石斎とは、今川の太原雪斎、武田の山本勘助とならび称される、北条の軍師である。数年前、氏康が北条の家督を継いだ直後、
「大丈夫か、弁千代。後からついてきても良いのだぞ」
「お気になさらず。先を急ぎましょう、新九郎さま」
氏康率いる北条軍は現在、小姓の弁千代と副将の多目元忠しかいない。叔父の北条宗哲は、居城であった長久保城を今川に渡すための後始末と、河東割譲の外交交渉担当として、駿河に留め置いている。また、氏康の乳兄弟で、護衛と部将である清水小太郎吉政も、ある理由で駿河に置いて来ていた。
少年と言うか、少女と言ってよいくらいの外見をしている弁千代は、物憂げにあたりを見回す。
「……何か、寂しいですね」
「仕方ない。宗哲叔父も、小太郎も、すぐ合流するさ」
そういう会話を交わしていると、前方から突如、鎧兜を真っ赤に染め上げた軍勢が出現した。
その軍勢の将とおぼしき騎馬武者が軍勢から突出し、氏康の前へ猛進する。
その氏康の前に、黒い鎧兜の元忠が立ちふさがり、言った。
「おい! 綱高! 殿の御前だぞ! 無礼であろう!」
騎馬武者は速度を落とさず、むしろ、そのまま馬を走らせ、自身はひらりと飛び降りた。馬は急旋回して、武者のうしろに止まる。
武者はいつの間にか片膝をついていた。
「……臣・綱高、お迎えに上がりました。あと、元忠は黙ってろよ」
「何を言うか、無礼者が」
元忠は憮然としながらも、綱高の馬の手綱を取った。
北条綱高。
北条五色備えのうち、赤備えを率いる将である。
元は高橋高種という伊豆の城主の息子であり、高種は伊勢宗瑞の養女を妻としていたため、北条家一門の扱いを受け、北条氏綱から、北条を名乗ることを許された男である。
つまりそれだけ、武勇に優れた将であるということである。赤備えという、戦場でもっとも目立つ色、狙われる色を任されているということからも、それが分かる。
ちなみに、多目元忠の父を師として文武を学んでおり、元忠とは竹馬の友である。
その綱高もまた、金石斎と同じく、氏尭の補佐と、伊豆・相模の防衛のため、小田原に留め置かれていた。
「殿、臣がこうして迎えに来たのはほかでもありません。里見の水軍がすでに迫っており、金石斎の命を受け、こうしてやって参りました」
「大儀。して、里見はどこまで?」
「もう……三浦半島のあちら側には見える、と」
「そんなにか」
氏康は振り返って、付き従ってきた軍勢を見る。皆、強行軍に疲れている。
「元忠、頼めるか」
「左様、そのために綱高を寄越したのでしょう」
「え、どういうことですか」
弁千代の疑問に、元忠がこたえる。
「弁千代。われらの軍は疲れている。これが急いだところで、ろくに戦えないし、最悪、間に合わないかもしれぬ」
「……たしかに」
弁千代自身は荷物や甲冑を持っていないため、多少は楽だが、それでもきつい道のりだった。
「で、あれば……と、おそらく金石斎が、こちらの軍は休ませ、あの赤備えを使え、ということだ」
「あ……そうか。元忠どのが残ってこちらの軍を率いて、ゆっくりと進み、休ませる。そして、新九郎さまはあの赤備えを率いて、里見を迎え撃つ、というわけですね」
「そうだ……で、弁千代、お前はどうする?」
「どう……とは?」
あのな、と元忠はつい口調が崩れる。弁千代には、周囲の人間に、親しみを持たせる、一種の魅力があった。
「疲れているなら、わしと一緒にこちらに残って、ゆっくり行くがいい。それとも……殿と行くか?」
「もちろんです」
弁千代は元忠に一礼し、新九郎と共に、赤備えの方へと向かった。
元忠は、やはり北条綱成の弟だ、芯がしっかりしていると思った。思ったが、それを言うと、綱成に甘やかさないでくれと言われそうなので、手を振って見送るにとどめた。
いざ鎌倉
鎌倉。
稲村ケ崎。
かつて、鎌倉幕府討幕の戦いにおいて、新田義貞とその軍勢は、潮が満ちていたため、ここで立ち往生となった。そこで新田義貞は黄金の太刀を海中に投じ、天に祈った。すると、潮が引き、砂浜が現れ、義貞の軍勢は勇んで進撃を開始した。
かくして鎌倉幕府は滅亡し、南北朝の動乱が始まり、室町幕府が成立するものの、国は乱れ、戦国の今に至るのである……。
「兄上からは、まだ何か」
「ございませぬ」
どこまでもつづく、青き
その波間にただよう、舟の群れ。
北条氏尭は、根来金石斎と共に、北条水軍の船の上で、兄・新九郎氏康の指示を今か今かと待ち続けていた。
沖にはすでに、里見の軍船が見え隠れしている。
どうも、大将がいることを意味する馬印も確認されたらしく、これは当主・里見
里見義堯。
一代の梟雄である。
義堯は、従兄である里見義豊を殺害し、北条氏綱の支持を取り付けて、里見家の家督を得た。その直後、氏綱と手を切り、独自に安房、上総、下総を席巻し、一大勢力を築き上げた。
今回の、関東管領の号令に従うも、一定の距離を取り、別動隊として働くとうそぶいて領国から出ず、周辺の空白となった大名の領土を視野に入れている。
そうかと思えば、千葉家のように、どっちつかずであり、北条方に転ぶ可能性の高い大名には、ここぞとばかりに関東管領の威を借りて圧力をかけている。
「金石斎、里見はかかってくるだろうか」
氏尭は、義堯が関東管領に対する言い訳として、とりあえず軍船を出してきた可能性があるかもしれないと考えていた。里見水軍はたしかに強力だが、虎の子でもある。下手に損なっては、今後の里見家の領海拡大に支障が生じる。
「……かかってくるでしょうな。どうも、太原雪斎から
「……そうか」
若い氏尭は、右手で拳を作って、左の手のひらをたたく。
氏尭は決して無能でもなく臆病でもない。後年、北条家の軍事外交の一翼を担う勇将となる男である。しかし今は、北条水軍を失うことを恐れ、憂えていた。
果たして自分が今、里見水軍に挑んで、勝てるだろうか。
相手は外海(太平洋)の荒波に鍛えられた、歴戦の水軍。
一方、こちらは将帥たる自分からして、未熟で、経験が浅い。
……勝てるのか。
「今、水軍を失えば、内海(江戸湾=東京湾)は里見家の手中に。そうなれば、関東管領を待たずとも、北条は終わりだ」
死命を制す、まさにそれだ。氏尭は慨歎したが、いつまでもそのままではいられない。金石斎に、過去の、大永鎌倉合戦のときの里見水軍の採った作戦を問いただす。
「金石斎、大永のときの里見水軍の兵法やいかに?」
「左様ですな……」
金石斎は白い髭をさすって、その大永の時の情景を、頭の中に呼び起こす。
「そう……里見は人形を舟に立たせ、わが方はそれをひたすらに射ました」
「なんと。それでは
「は。それで……矢が尽きたところで里見の舟が寄せてきましてな、木石をこう……投げつけ、投げ入れたのでございます」
「……沈められた、と」
「まあ、沈んだのは数隻でしょうな。舟に載せた木石が、舟を沈めるには、三隻分の木石で一隻を、という感じでしょう」
しかし動揺が広がったのです。金石斎はため息をついた。あれが無ければ、里見の上陸を阻止できたかもしれず、そして鶴岡八幡宮は焼けずに済んだかもしれない。
「済んだことは仕方あるまい。それで、今回も同じ手で来ると思うか?」
「いや。ばれている手は使わないでしょう。今回は率直に攻めてくるでしょう。氏尭さまの憂慮されているとおり、
「…………」
ここ数年、里見水軍の海賊行為は激しく、三浦半島の民は、北条だけでなく、里見に対しても年貢を払い、その被害から免れていた。そしてそれを、北条としてはなすすべもなく、黙認せざるを得なかった。
「関東管領の、そして太原雪斎の命令にかこつけて、内海の支配を完成させる。それがこたびのねらいでしょうな」
「やはりか」
「あとは……」
そこまで言いかけたとき、舟べりに、ひょうと矢が刺さった。
「何奴?」
「いや、氏尭さま、これは……」
矢羽が、赤い。
そして、矢に紙が巻き付けてある。
ふと岸の方を見ると、赤い甲冑の武者が、手を振っていた。
「赤備え。綱高さまの矢文でござる」
「左様か」
氏尭は早速に矢を引き抜き、巻き付いた紙を外す。
ようやく、兄上からの指示が。
氏尭は指がかさついて、紙が広げられないのをもどかしく思い、紙を振って、広げる。
虎の印判。
北条家の公印。
兄上は小田原に至ったか。
いや、それより、内容は。
「これは……」
「何と書かれて?」
「兄上の命だ。われら、これより、里見が陸に上がるところをねらう」
「ふむ。常道ですな」
「しかるのちに……」
金石斎は髭から手を放す。
「しかるのち? まだ何か……」
「しかるのちに……
「敗けろ?」
(つづく)
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