16 いざ鎌倉 下
一方の海上の里見
船底で、かさこそと揺れる書状にもはや関心はなく、舳先へと向かい、大音声で命令した。
「よいか! われら、これより鎌倉へ入る! 内海のぬるい北条水軍など、蹴散らしてやれ!」
おお、と、それぞれの舟の
満足した義堯は、そのまま進軍を命じた。
義堯の父・
結果、義豊の権力は低下し、実堯の発言権が増す。事態を憂えた義豊は、実堯を暗殺してしまう。義堯にもまた、義豊の手が伸びてきたところを、北条氏綱からの援軍を得て退け、そして里見家の家督を手中にする。しかしその直後、義堯は氏綱と手を切り、里見家は北条家と敵対することとなった。
「……あれから、里見は房総の覇者となった。今こそ、あの鎌倉を奪取して、雪辱を果たす時、か」
義堯は、船底に落ちている雪斎の書状を横目で見て、そして失笑した。
「ばかが。鎌倉で失敗したのは、義豊よ。父・
利用されてたまるか。
戦国という荒波を泳ぎ、一雄として名乗りを上げた男にとって、雪斎はただのおしゃべりがうまい禅僧であり、それが関東管領だの
「……だが、いつまでも里見が鶴岡八幡宮を焼いた、と言われるのは
内海(江戸湾=東京湾)は里見がもらう。
だが、それだけでは済まない。
「殿、北条水軍が来ます!」
「結構。北条を蹴散らしたのちは、そのまま陸に上がるぞ。ぬかるなよ!」
「応!」
力強い返事に満足し、義堯は来たるべき海戦に意識を集中させた。
*
北条綱高は、北条氏康の指示により、稲村ヶ崎の周辺にて、赤備えの軍勢を右へ左へと、あちらこちらへと動かしていた。
「綱高さま」
「なんだい」
「このような……うろちょろとした行軍、みっともないのでは?」
「だからいいのよ」
赤備えの猛将と聞こえの高い綱高だったが、実際の彼はざっくばらんとしており、結構くだけた感じで人と接していた。このあたり、同門であり同朋である多目元忠とはちがっていて、普段の平服である綱高を、知らずに出会った人は、町人かと思うことが多い。
「あの、里見の義堯の旦那が陸に上がったところを、
「はあ……」
その武将はしぶしぶという感じで引き下がった。綱高が赤備え全体を見回すと、全員、そういう感じだった。
いいぞ、と綱高は思った。
このやる気のなさが、新九郎の打つ大芝居の役に立つ。
あいかわらず、面白いことを考える奴だ。
綱高は北条の名乗りを許されたとき、同時に氏綱の子という扱いを受けることになった。そのため、氏康や綱成、小太郎、
「……綱高さま、里見水軍、陸を目指して進み出しました」
「やっこさん、ついにお出ましかい? で、氏尭の奴……じゃない、氏尭どのは?」
「横合いから、来ます!」
「よし、者ども、つづけ! へっぴり腰でな!」
「はあ……」
綱高は猛将という枠に収まらない、柔軟さをあわせもっていた。竹馬の友の元忠に言わせれば、柳のようであり、しなった柳の反動が恐ろしい、という感じであった。
*
北条新九郎氏康は、海に北条氏尭、陸に北条綱高を配し、自身は小田原よりの荷駄を率いて、鎌倉へと迫っていた。
「奥方さまには会わなくてよろしいので?」
「……河東に行った兵たちが戻ったのなら、会うさ」
弁千代の心配に、氏康は正論でこたえた。そして氏康は、何か思うところがあるのか、常の彼らしくなく、ため息をついて馬を走らせていた。
弁千代は、これからの作戦について不安があるのかと思い、それ以上何も言わなかった。
しばらく馬を走らせていくと、横合いに青く輝く海が広がってきた。潮のかおりもかすかににおう。
まぶしさに目をしばたたかせながらも、弁千代の目には、数百もの舟の集団を捉えた。
舟の集団はふたつ。
すなわち、北条・里見双方の水軍である。
両水軍は次第に次第に接近し、そして戦いの火ぶたを切る光景が、弁千代の目に映ってきた。
*
「義堯さま! 北条が仕掛けてきました!」
「あわてるな! 上陸のふりに騙されて、いきがって突っ込んできただけだ。いなしてやれ。そして里見の水軍には二度と逆らえぬ、と思い知らせてやれ!」
鎌倉近海では、ついに北条氏尭率いる水軍が、里見水軍の上陸の様子に誘われて、攻撃に入った。
しかし、外海(太平洋)において鍛え上げられた里見水軍には及ばず、次第に打ち払われ、徐々に撤退に入った。
「今は亡き北条為昌が見たら、
北条為昌とは、氏康、綱成の弟であり、氏尭の兄である人物で、かつて北条水軍を率いて、里見水軍に勝ったことのある男である。しかし、現在は鬼籍に入っており、為昌の陸の戦力は綱成が、海の戦力は氏尭が引き継いだ。
「これなら大膳がいなくとも、問題はなかったな」
里見家重臣であり、正木水軍を率いる正木大膳は、今は別行動のため、いない。鎌倉は「先代」義豊の失敗であるため、今代の義堯が出る必要があると考えたため、義堯が直に水軍を統率して、来ていた。
「……まあ、いい。北条水軍はあらかた追っ払ったか?」
「はい、見てください。もうあんなところまで逃げましたよ」
「そうか」
義堯の目に、焦って大将である氏尭まで舟を漕いでいる姿が見え、もうあれは駄目だな、と感じられた。
「……よし、当初の目論見どおり、鎌倉へ入る。わかっていると思うが、火付けや略奪は禁ずる」
「は。以前の二の舞は御免ですからね」
「そういうことだ」
里見水軍、いや今は里見軍は、稲村ヶ崎への上陸を終え、これから鎌倉市街突入に取りかかる段階にあった。
そこへ……のこのこと……北条綱高が赤備えを率いてやってきたのである。
里見軍は、義堯自ら弓を引き、赤備えへの初撃を打ち込む。
対する赤備えも矢を放ち、矢合わせの、ようなものが始まった。
そうこうするうちに、綱高の眼前の砂地に、義堯の矢が刺さるという瞬間があった。
「うわっ」
綱高のわざとらしい叫び声が合図となって、北条赤備えは一目散に逃げ出した。
「なんだ、あれは」
「あれでも赤備えか」
「あれか……北条の一門ということで」
「ああ……縁故ってやつか」
里見の兵たちは、どっと笑い出した。
里見の者たちにとって、北条は領土である三浦半島をろくに守れない、惰弱な大名という認識がある。水軍で勝る自分たちこそが、内海の覇者であり、北条は港となる土地をたまたま占有しているに過ぎない。強いのは自分たちだ……と。
だが、里見義堯はちがった。
「面妖だぞ。あれは何か……誘っているのではないか」
「と、申しますと」
「そうだな……伏兵とか」
「おお……では、いかがいたしますか」
義堯は考える。
このまま進軍するのはうまくない。
さりとて、ここまで来た以上、鎌倉に進まないことには、太原雪斎に対して言い訳ができない。
そこまで考えたところで、今度は義堯の目の前の砂地に、矢が刺さった。
「何?」
「おうい、里見の衆!」
何と、赤備えの北条綱高が、おっとり刀でこの場に戻ってきていた。
綱高は大音声で義堯に言う。
「どうしたどうした、伏兵が怖いのか? ならそれでいい。鎌倉に入られて、また鶴岡八幡宮を焼かれたら、困るからな!」
「……放っておけ。どうせ言われると分かっていたことだ」
義堯は家臣や兵たちに自重を求めた。
だが、次の綱高の台詞が、義堯自身の自重を粉砕した。
「……まあ、先代の義豊公はまだ、市中に攻め入るだけ器量があったが、今の義堯の旦那は度胸が無くて、それもできない腰抜けみたいだがな!」
「…………」
里見軍の者たちは、義堯が沈黙しているのを見て、さすがわが殿だ、罵詈雑言など相手にしないと
「……かかれ」
「は?」
「義堯さま?」
「かかれと言うとるのじゃ! かかれ! あのふざけた赤備えを討ち取れい!」
「は……ははっ」
下剋上により、里見義豊を殺害して、里見家を乗っ取った義堯には、それゆえの泣き所がある。それは、義豊より劣る、と見られる点だった。
先代・義豊より優れているからこそ、義堯の下剋上は正当化できる。
義堯はそう信じ、実際、そのように振る舞い、実績を上げてきた。
それが、軍兵の耳目が集まる中で、こうまで悪しざまに器量が無い、度胸が無いと言われては、立つ瀬がなかった。
何より、義堯は義豊のことを生前から軽蔑し、嫌悪していたが、それに劣ると言われることは、かなりの屈辱であった。
義堯は自ら太刀を取り、綱高に向かって
「死ねい!」
「うわ、わ、とっと」
綱高も刀を抜いたものの、かろうじて義堯の斬撃をかわし、もたもたと、自陣の方へと後ずさっていく。
「見よ! この口だけの腰抜け侍が! かような者が赤備えとは、北条の威勢も落ちたものよ!」
「……いやいや、お前らを鎌倉に入れさせないだけ、威勢は上がっているのでは?」
「減らず口を!」
義堯は全軍に突撃を命じた。里見軍の兵とて、主君をばかにされ、鶴岡八幡宮焼失のことを持ち出され、怒り心頭だったため、否やは無かった。
「殿につづけ!」
「あの赤い奴をぶった切ってやる!」
「そのまま鎌倉に入るぞ!」
綱高は義堯の剣先を逃れるふりをしてかがんだ時、思わずほくそ笑んだ。
かかった。
新九郎の言ったとおりだ。
「うわあああ! 助けてくれえ!」
綱高は義堯にうしろを見せて走り出す。
「あっ、こら待て! 逃げるか! 敵にうしろを見せるな!」
義堯は太刀を片手に駆け出す。里見軍もつづく。
彼らは熱中していた。
綱高を討つことに。
鎌倉に入ることに。
汚名を雪ぐことに。
……だから、洋上から近づく炎には、気づけなかった。
いざ鎌倉 了
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