17 燃ゆる波濤






 箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ


 源実朝






 北条氏尭うじたかは、兄・新九郎氏康の指示に唖然としていた。

「よくけてきた。では、残った舟にこれを積め」

 氏康が率いてきた荷駄隊は、急ぎ燃料となる枯れ枝などを下ろし始めていた。

「あ、兄上、もしや……」

「そう、舟々に火を付けて、里見水軍にぶつけてやれ」

「火計ですな」

 根来金石斎は、髭を撫でながらうなずく。

「感心している場合か、金石斎。左様なことをしたら、北条水軍は立ち行かぬぞ。向こう一年は……」

 そこまで言ったところで、氏尭は、氏康の意図に気付いた。

「まさか……兄上」

「里見水軍は数百艘。これが焼けてしまえば、里見水軍、向こう一年は立ち行かぬだろうな」

 空恐ろしいことを考える男だ、と氏尭は兄を改めて見つめた。

 氏康は微笑すらたたえて、金石斎に潮と風の流れを確かめていた。

「あと一刻ほどすれば、潮の流れ、風向きがこちら側からあちらへ。良き機会しおでございまする」

「金石斎、へたなしゃれはあいかわらずだな」

「潮と機会しお、お分かりいただけましたか」

 氏尭は、その何気ない氏康と金石斎の会話を聞きながら、ひとつ気づいたことがあった。

「兄上、北条水軍と里見水軍を駄目にしてしまうのは、ようございますが……」

「なんだ」

「そのあと、内海を誰が守るのですか? いくら何でも海賊を横行させては……」

「そうだな……」

 氏康は、ため息とともに語った。

「われらが盟友どのが、そこは受け持ってくれるさ」







 燃ゆる波濤はとう






 里見義堯よしたかは呆然としていた。

 彼自身が手塩にかけて育て上げた水軍が、里見の舟々が、その眼前で、北条水軍の捨て身ともいうべき、燃え上がる舟々をぶつける攻撃に、なすすべもなく当てられて、燃え上がっていく。

 このあたり、兵の運用に関しては練達の技倆を持つ金石斎の存在が大きい。

「ぼやぼやするな! 早く、早く舟に戻るんだ!」

 砂浜に乗せるかたちで留め置いた、まだ使える舟を目指して、義堯は駆けて行く……いや、駆けて行こうとした。したが、赤い甲冑をつけた男が追いすがり、その疾走を妨害する。


 北条五色備え、赤備えの将・北条綱高である。

「逃げるなよ、旦那」

「貴様! 邪魔立てするな!」

「おっと……こちとら、散々逃げる真似をさせられて頭に来てるんだ。その鬱憤うっぷん、晴らさせてもらうぜ!」

 綱高は威勢よく啖呵を切ったが、部下の将兵からすると、

「いや……あれは絶対逃げる真似、楽しんでた」

「鬱憤? うちの大将と無縁な言葉さね」

「何でもいいから早くやろうぜ。大将が珍しくやる気のうちに」

 赤備えは綱高への鬱憤は置いておいて、里見軍が反応できない速度で、突撃を開始した。


 逃げ腰だったはずの赤備えの苛烈な攻勢に、里見軍はたじろいだ。かつ、舟が燃え沈んでいく姿を眼前に見せられ、動揺は幾重にも広がっていった。

「おのれ! おのれ!」

 義堯は、あと少しで乗船できそうなところで、巧みに綱高が攻撃を強めてくるため、かえって怒りと苦しみで、頭が破裂しそうになっていた。それでも敗勢を必死に立て直し、ようやくのことで、まだ無事な舟に乗ることができた。

 ひとりだけ同乗できた者に櫂を任せ、義堯は舟底を叩いた。叩いた船底に、雪斎の書状が転がっていることに気付き、義堯は悔しさに身を震わせた。

「覚えておれ……この辱め、必ずや……」

「必ずや……何だって?」

「何!?」

 振り向くと、櫂を持っていたはずの男が、刀を抜いて、義堯の鼻先に切っ先を突きつけている。

「き…貴様……何者だ、名を名乗れ!」

「北条新九郎氏康」

「う……」

「呉越同舟、とでもいうべきかな……いや、使い方が間違っているか」

 別に協力して舟を漕ぐわけでもないし、と氏康はつづけたが、義堯は恨めしそうな表情をして、睨むにとどめていた。


 そうこうするうちに、舟の周囲に、里見の舟を鹵獲した北条の兵たちが集まって来た。近くに寄って来た舟の舳先に、まるで少女のような外見の少年がいた。

「新九郎さま、困ります。このような真似をされて」

「すまん、弁千代。綱高兄、ではない、綱高が譲ってくれたのだ」

 陸を見ると、もう砂浜に座っていた綱高が手を振っていた。

「怠け者ですね、綱高さまは」

「そこは主君の顔を立てたと言ってやってくれ」

 氏康は油断なく義堯に向けた刀を微動だにさせず、同乗してきた弁千代に舟を砂浜へ戻すよう命じた。砂浜に戻ると、さすがに義堯は観念したのか、舟の中で腕を組み、そしてどっかりと腰を下ろした。


「…………」

 氏康と弁千代が舟から下りると、氏尭と金石斎がずぶ濡れのままやって来た。どうやら火の舟をぎりぎりまで操船し、海に飛び込んできたらしい。

「着替えろ。特に金石斎は年齢としなんだから、早く焚き火をおこして、あたれ」

火……行のあとみたいでござるな、殿」

「金石斎、へたなしゃれをやめろ。早く誰か火を」

「兄上、せっかく里見の大将をつらまえたんでしょう。顔を見たいと思うて」

 氏尭は、氏康がやめてやれと言うのに耳を貸さず、義堯の顔を見た。

「……うわっ、悪そうな顔! さすが下剋上の男!」

 氏康は天を仰いだ。

 氏尭は末っ子らしく、遠慮なくずけずけと言う性格であり、北条家中では批判的な意見を言える男として珍重されていた。

 当の義堯は、不愉快極まりない台詞に怒り心頭となった。

「ふざけるな、こわっぱが! 大体だな、舟をみんな燃やしてしまうとか、狂っているのか? ふざけるなよ! これで内海は無法だ! 商人たちも寄り付かなくなるぞ、どうしてくれる!」

「自分が攻めかかったから燃やされたんだろう? ひどい言いがかりだな。自分が一番悪いくせに」

「ぐっ……」

 氏尭の容赦のない返しに、義堯は言葉に詰まった。

 氏康は、もうその辺にしておけと、氏尭を押し動かして、綱高が熾した焚き火の方へ向かわせた。

「義堯どの、弟の非礼は詫びよう」

「…………」

「あと、内海の今後については、策を打ってある」

「……舟が無いのに、どうする気だ?」

 氏康は海を指さした。義堯は胡乱うろんな顔をして、その指さす方向を見る。

 ……舟の群れが、こちらに向かって進んでいた。

「何だ、あの舟々は?」

 義堯が凝然じっと見ると、帆に赤い烏の紋様が染め上げられていた。

「い、今川赤鳥……」

 舟の群れは、今川水軍であり、その水軍の主は今川義元であった。

 だんだんと、義元の舟が近づいてきて、その舟に、清水小太郎吉政が乗っていることも、目に見えてきた。

「おうい、新九郎、弁千代、息災かあ?」

「小太郎さま、おかげさまで」

 弁千代は頬を紅潮させて声を出し、氏康は無言で手を振ってこたえた。


 北条水軍と里見水軍を共倒れさせる。

 それによってできたを、今川水軍によって、補う。

 は一年くらいつづくだろうが、その間に、河越の方を片付ける。

 それが、里見水軍迫るの報に接し、氏康が考えた対策である。


 狂人の発想だ、と清水小太郎には言われた。だが、今川水軍の水先案内は引き受けてくれた。清水小太郎は清水家――伊豆の水軍衆をまとめる家の者なので、今回の件にはうってつけの人材だった。

「おう、こいつが里見義堯か」

 清水小太郎は義元の上陸を手助けしながら、顔だけ義堯の方を向いた。

「ふむ、悪人面じゃのう」

 義元は、素直な感想を漏らした。

 氏康は、氏尭をにらんだ。弟はきっと「あなたもですよ」と言いかねないからだ。そしてその予想は当たっていたらしく、綱高の肘鉄を食らっていた。

 義堯は、さすがに今川家当主に対しては何も言えず、黙っていた。今川家は、関東管領・山内憲政とは同盟していることもあり、形の上では里見家は関東管領同盟軍に属しているため、うかつなことを言うのは、ためらわれた。


 義元は豪胆にも、義堯のいる舟に乗った。

「処世の術は知っておる、か。結構なことじゃ」

「…………」

「予としては、どうでもよいことじゃが……ここはひとつ、予の顔に免じて、退いてはくれんか」

「…………」

「見たところ、何艘かは残っておる。それで帰られたらよい。そして……北条とお互い、舟戦ふないくさは慎んでもらおうかの。どちらにせよ、舟が無いし。舟ができるまでで良い」

「…………」

「……おい」

 義堯がふてくされて黙りこくっているため、義元は首を傾げながら、目を細めた。

 義堯が目をしばたたいた瞬間、いつの間にか義元の顔が眼前にあった。

「……っ首、ねられたいか?」

 義元の凝視に、義堯は耐えられず顔をそむけた。

「……分かった。舟戦は控える。これでいいだろ……よろしいか」

「結構」

 義元は笑顔に戻り、舟から下りた。義堯の言葉遣いなど、どうでも良いことである。


 ……義堯は残った里見兵を、やはり残った舟に乗せるだけ乗せ、やがて海へと漕ぎ出だした。

 その顔は、たしかに悔しさに満ちていたが、一方、あることを思い出し、浜に残った氏康や義元を見て、ほくそ笑むのであった。



「……やっぱり、っとくかい?」

 北条綱高は弓を引き絞りながら、里見義堯の方へ構える。

 義堯はあわてて舟のへりに身を隠す。

「いや、いい。あれがいないと、里見の残兵がまとまらない。散って、賊となられては困るからな……あと」

 北条新九郎氏康の発言を、今川義元が引き継ぐ。

「房総がまとまっておるのも、あれのおかげらしいしのう。いなくなられて、房総が乱れたら、武蔵野まで及ぶしの」

 弁千代がさきほどから感じていた疑問を口にする。

「でも何で、里見は笑っていたんですか? 何かまだ裏があるんじゃ……」

「ほう。これがあの福島綱成の弟御か。聡いのう」

 義元は、今度は心からの笑顔を浮かべた。幼少の頃、寺で苦労したことがあるので、彼は子どもには優しかった。

「恐縮です……」

「かまえずとも良い。予は別に、そこまで昔を気にする男ではないわ」

 福島家は今川の重臣の家系だったが、義元とその兄・玄広恵探げんこうえたんとの後継者争いにおいて、玄広恵探の側に付いたため、討滅された家である。その上、福島綱成――北条孫九郎綱成と弟の弁千代は、福島家の中でも、武田との戦に負けた戦犯として、討たれた家の者である。


「弁千代、何で笑ってたかは……義元どののさっきの言葉で分かる」

 氏康は場の空気を戻すため、弁千代に話しかけた。

「さっきの……言葉?」

「そう。舟戦はやめる、だ」

「あとよ」

 清水小太郎もまた、同じねらいで弁千代に話しかける。

「槍大膳の奴がいないぜ」

 槍大膳。

 里見義堯の腹心、槍術に長じた、正木大膳時茂の通り名である。

「えっと……そしたら、その槍大膳に何かをやらせている、と。それは舟の合戦ではなく……」

「陸の上だな。ついでに言うと、義元どのの言葉に従った以上、関東管領と関わっている土地には行けない」

 氏康は砂浜に、拾った枯れ枝で簡単な地図を描いた。

「……関東管領の関東諸侯八万の同盟軍に関わっていない……あっ、千葉家ですか? 下総しもうさの」

「御名答」



 下総。

 佐倉。

 千葉家の居城では、現当主・千葉昌胤が倒れ伏し、嫡子・千葉利胤が病弱であるため、陰鬱たる雰囲気がただよっていた。

 千葉家の家宰・原胤清は、その陰鬱な雰囲気の中、まず昌胤の寝室を訪ね、とても会話できそうにないことを、知っていたが確認すると、利胤の居室へと向かった。

「若。胤清でございます」

「苦しゅうない……入れ」

 千葉利胤は病弱であり、あまり外に出ず、居室で横になっている方が多かった。

 この日も、利胤は日課である馬の世話の最中に倒れ、居室に運ばれるという騒動があった。

「また、周りに世話をかけてしもうた……」

「若、お気に召さるな。周りはそれが仕事でございます」

「そうよのう……」

 利胤はぼうっとして、外を眺めた。


 うららかな天気だ。

 このような好天の下、あの馬を走らせたら、どんなにか心地よいだろう。

 でも、それはかなわない。

 自分の躰だ、自分が一番よく分かっている。

 もう長くはない。

 もってあと一年くらいだろう。


「せめて一度なりと、父上にもらった、あの馬に乗ってみたかった……」

「何を弱気なことを」

「胤清」

「は」

「もうかまわんから、おぬしが千葉家を家督したらどうじゃ」

「それは……」

 千葉は百騎、原は千騎と噂されるほど、千葉家と原家の実力の差は歴然としていた。原家は千葉家を支える家柄であったが、その千葉家の方が戦乱の影響で、武蔵千葉家という分派を生み出し、弱体化してしまったのだ。

 ちなみに、原虎胤は、この原胤清を本流とする下総原家の支流の家柄である。

「父上ももう保つまい。私が家督したところで、何になる」

「しかし、それでは相馬小次郎以来の名門、千葉家が……」

「名門」

 利胤はひとりごちた。

 たしかに名門ではある。相馬小次郎、平忠常のようなそうそうたる先祖を持ち、源平、鎌倉、南北朝と時代を生き抜いてきた。

 しかし、それは過去のこと。

 今となっては、北条家の支援があって初めて、城を取り返し、家を保っている有り様だ。利胤自身、北条氏綱の娘をめとり、北条家の一門となることになっていた。しかし、利胤は「病気が治ってから」と言って遠慮し、そして今に至っている。

「名門が聞いてあきれる。かようなでは、ご先祖様に憫笑びんしょうされようよ」

「若……」

「ああ、せめて、一度でいい、馬に乗り、戦場を駆け、千葉介ちばのすけここにありと示してみたかった……」

 千葉介とは、千葉家が下総権介であったことから派生した通り名で、千葉家の当主を意味する。

「…………」

 原胤清は、慨歎する利胤を前に、何も言えなくなった。胤清とて、乱世に生きる武将。機会あらば、のし上がって原家の名を高めたい。だが、のし上がるべき相手の千葉家の当主と嫡子がこれでは、その甲斐がなさすぎる。胤清は、相手の弱みにつけこんでまで立身しようとは思わなかった。彼にも矜持きょうじというものが、誇りというものがあり、そのため、あくまでも千葉家の家宰でありつづけた。


「申し上げます!」

 気づくと、背後に若党が片膝をついており、報告の機会を待っていた。

 胤清は気まずい雰囲気を打開しようと、若党にこたえる。

「なんだ」

「里見家の正木大膳、手勢を率いてこちらへ向かっているよし

「なんだと!?」

 千葉家は当主と嫡子の病を理由に、関東管領の誘いを丁重に断っている。本音としては、これまで支援で受けてきた北条家に味方したいが、それをあからさまにするとまずいので、どっちつかずの態度を示して来た。それでこれまで、のらりくらりとうまくやって来た。

 しかし、里見家のような、近隣の野心的な戦国大名からすると、格好の獲物だったということらしい。関東管領率いる関東諸侯同盟軍に会盟していない、つまり北条に味方するということを口実に、攻め入ることができてしまうのだ。


 里見家の起こす炎にも似た波濤はとうが、うねりを上げて、今、下総の千葉家に襲いかかろうとしていた。






燃ゆる波濤 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る