18 城塞 上
The worst is not, So long as we can say, ‘This is the worst.’
William Shakespeare
武蔵。
河越。
秋風寒く、もう冬の到来が感じられる季節。
河越城、城主の間にて、北条孫九郎綱成は、碁盤の上に碁石をならべていた。
碁盤の向こうに相手はいない。
碁石の配置が終わったらしく、綱成は、両手を袖に入れ、しばしの間、沈思黙考する。
「…………」
その盤面は、見る者が見れば、それは関東の縮図にも見えた。
「新九郎が、今川・武田と和し……」
駿河東部、河東にあたる白い碁石が、黒い碁石に置き換えられる。どうやら、北条方は白、それ以外は黒で表現しているらしい。
「……そこへ里見の水軍が、と」
綱成の指は黒い碁石を取り、相模に向けて黒い碁石を動かす。
「里見が鎌倉へ寄せるのは分かる。分かるが、鎌倉を支配下に置くのは、無理がある」
海路で結ばれているとはいえ、恒常的に里見が鎌倉を領地とするのは苦しい。海が
「……とすると、鎌倉にはあくまでも寄せるだけ。真の狙いは……下総の千葉か」
房総の方、一点のみ白い碁石が置かれていて、それが千葉家を意味するらしい。
「江戸から
江戸城と下総の千葉家の間、そこにある黒い碁石。これがあるために、連携が困難となっている。
「武蔵千葉家か……」
武蔵千葉家。享徳の乱という関東の戦国時代のはじまりともいうべき争乱の中、千葉家は分派し、武蔵に逃れた側の千葉家である。下総の方で千葉家の血筋を引くものが自立した方が、佐倉の下総千葉家である。
武蔵の千葉家は太原雪斎の調略により、関東管領の方につき、その居城は石浜城といい、今日で言えば(おそらくではあるが)東京都台東区浅草のあたりにあった。石浜城は江戸と佐倉の間、江戸のすぐ近くにあり、このような状況において、非常に厄介な存在であった。
「江戸にいる青備えが、佐倉へ駆けつけられれば、里見に対抗できる。そのためには、石浜が邪魔だ……」
綱成は、江戸と佐倉の間にある黒い碁石、石浜城を見つめる。
これをどうにかしなければ。
しかし、石浜城をうかつに攻めるのも考え物だ。
攻城中、佐倉の下総千葉家が領地を奪われてしまう可能性がある。
綱成は、
「だが……美濃どのと……幸綱どのが、江戸に至っておる。そうだな、
綱成は後ろを振り向く。
振り向いた先に、ぼんやりとした影が浮かび上がり、それが徐々に濃くなっていき、人影が現れた。
瑞々しい容姿をした、美丈夫。
それが
「左様……わが主・真田幸綱、ならびに鬼美濃どのは、江戸に至ったとの
「そうか」
綱成が、太原雪斎の武蔵千葉家への「働きかけ」を知ることができたのも、
……なお、余談であるが、
「ならば」
綱成は武蔵千葉家の黒い碁石を取り、代わりに白い碁石を置いた。
「あとは、この河越において、どう凌いでいくか、だな」
「失礼ながら」
「何か」
「寄せ手の関東管領をはじめとする諸侯は、もう攻める気をなくしているようにお見受けいたす」
「ふむ。たしかにそうだが……」
「加えて、新九郎氏康さま、今川と和睦を結んだとの
大兵力で、勝つと分かっている。
ならば一体誰があの恐ろしい地黄八幡と戦うのか。
関東諸侯の間では、それは暗黙の了解であり、了解していないのは、山内と
「いや」
綱成は
綱成の手から、黒い滝が生じたがごとく、黒い碁石が盤面に降り注いだ。
「な、何をなさる」
「太原雪斎は口舌で人を操るのは得手としているが、今回ばかりはやり過ぎたな……古河公方は乗り気だそうだ」
綱成は懐中から、書状を取り出した。
「古河公方の奥方――義妹から、風魔を介して、届いた」
古河公方、足利晴氏の妻は、北条氏綱の娘であり、氏綱の養子である綱成より年下なので、義妹といえた。
「適当に合わせて、出馬だけして、あとは古河へ戻るという、ぬるい真似はしてくれそうにないらしい」
そのとき、城主の間に、山中主膳が息せき切って、走りながら入ってきた。
「……来おったぞ、孫九郎どの、丸に二つ
「来ましたか」
丸に二つ引。
足利将軍家の紋である。
城塞
古河公方・足利晴氏は河越へ征く前に、妻にしばしの別れを告げた。
「すまぬ。
「公方さま、
「なんじゃ」
「義兄上と兄上……命だけは助けてもらえませんか」
「ふむ……」
晴氏と、北条氏綱の娘である妻は、政略結婚の間柄だが関係は良好で、子ももうけている。だが今、晴氏は北条家を裏切って、関東管領率いる関東諸侯同盟軍につこうと、いや、統帥する立場になろうとしている。
晴氏の妻は、
「……それはできぬのう」
晴氏の返事は、にべもないものであった。
おかしい。
常の晴氏なら、このような残酷な対応をしないはずなのに。
大体、晴氏の目つきからしておかしい。
どこを見ているのか、よく分からない、
「吾が妻よ、よう聞け。北条綱成は、いかなる理由であれ、河越を開城したら、死ぬぞ」
「さ、左様な……妾が使いに立ってもようございます。なにとぞ……」
「そういう意味ではない。かの者、躬も婚礼の際に会ったことがあるが……あれは、たとい城兵助命の上で開城したとしても、その責を取って自害する類の男ぞ」
「……それは」
「また新九郎氏康、かの者、
「…………」
晴氏の妻は、肩を落とした。いっそ離縁してくれた方が、まだ楽だったかもしれない。「北条の娘との宿世の縁」だの何だの言い立てた太原雪斎が恨めしい。晴氏の自分への想いを、縁を利用した、姑息なこじつけだ。
しかし今、晴氏の説得に失敗した以上、自分にできることをやるしかない。
まずは、氏康と綱成に
兄たちなら、この最悪とも言える状況を、何とかできるはずだ。
そして……。
「……では、さらばじゃ」
彼女の想いをよそに、晴氏は出立する。
「はい……息災で」
「そなたも」
そして古河にとどまり、夫の帰りを待とう。
晴氏が失敗したときに、彼を支えてあげなければ。
そしてその命を助けることができるのは、自分だ。
足利晴氏の妻……いや、北条氏綱の娘は、予感めいたその展開が脳裏から離れなかった。
「やはり……嫁ぐときに父上に聞いた、あのことを……」
そうつぶやき、彼女は侍女を呼んだ。
「誰かある」
「はい、御方さま」
「そなた……梁田高助さまを呼んでくりゃれ」
「かしこまりました」
梁田高助。
古河公方足利家が、まだ鎌倉にあり、鎌倉公方と呼ばれていた頃から仕える、重代の重臣、梁田家の当主である。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます